wada managment

和田塾通信2014/03

2014年3月 和田塾通信〔№46〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『表彰台はうれしかったが、この何年間かやってきたことの方が価値がある』

女子初のスノーボードで銀メダルをとった竹内智香選手の言葉である。なかなか技術向上ができず壁にぶちあたっていた彼女は、自ら「スイスのナショナルチームに入って練習したい」と何度もお願いして、やっと受け入れてもらい、向上できた結果が今回の銀メダルにつながった。
それまでの鍛錬、努力、精神的な強さを得たことなどから、精進の大切さをいいたかったのだと思う。経営にも、人生にも通じる考えである。

出逢いが人生を決める-船井幸雄会長との出会いと想い出

船井幸雄さんが去る1月19日に81歳の天寿を全うされました。7~8年程前から体調を崩されていて、この1~2年は、ほとんど人と会うこともままならなかったようです。ちょうど1年前に、お話ししたいことがあり、時間をとっていただいて、お会いしたのが最期でした。
「過去を自慢げに語る人間は『下の下の人間』だ!」というのが船井さんの信条でしたので、今まで、私もほとんど過去の話はしたことがありません(まぁ、自慢するような話もないのですが・・・。ただ船井さんとの出会いは私の人生にとっての自慢です)。
今回、この文は船井さんへの追悼という意味もこめて、船井さんとの出会いと教えについて書いてみます。そして「教え」については、別の機会に少しまとめてみたいと思っております。
結論から言いますと、戦後、日本の経済成長と共に、中でも繊維産業と流通小売業の隆盛と共に、船井さんが、その存在を確立していったのが1970年頃から1990年までの約20年間だったと思います。
私もこの時に船井さんと出会い、そして共に働き、共に日本マーケティングセンター(後に船井総合研究所と社名変更)を大きくしていきました。私が20代から30代の時です。
そして、1988年に株式上場を果たすわけですが、この時が経営コンサルタントとして、経営者としての最も輝いた時であり、不動の地位を確立した時だと思います。
「最もやりたいのは、大衆を相手に商売をすることだ!」と常々、おっしゃっていましたが、この頃から、自らその実践に入られていたわけです。
「本物の生き方」「あの世のこと」等々、多少、予言者的なことが多くなったようでしたが、私は、1990年から2014年まで、その後の20数年間については、一緒に仕事をしていないので、何も話すことはありません。
様々な方から『不思議現象話』『宗教的な話』をする船井さんについて「オカルトぽいとか言われるけど、どうなの?」と何度となく聞かれたのですが、本質的なところはよく分からないというのが実情です。
こういうことに関して、船井さんは、ずっと昔(ご本人が30代の頃)からご興味があり、研究したり、学んだりされていたと思います。
そして船井さんなりに、論理的に世の中の様々な現象をルール化していったのでしょう。ロジカルに整理し、定義づけることに際して、天才的な能力をもたれていました。
さらに自身のポリシーとして「世の中、どうしたらよくなるか」ということを船井さん流の考えで、使命感を持って、社会に訴えてきたのだと思います。だから多くの共感者を得、そして船井ファンがいたのでしょう。
いづれにしても、戦後の日本の経営コンサルタントの第一人者であり、船井さんが組織集団として、コンサルタント会社を初めて株式上場をさせた功績は、歴史的なことであり、この業界が社会的価値を高められたのも船井さんの存在なくしては語れません。
そして、船井さんとの出会いがなかったら今の私も無いのです。船井さんとの出会いを少しまとめてみました。
私の実家は山梨の地場産業(今や衰退してしまった)である繊維(裏地)の零細業を営んでいました。大学3年から4年の就職活動を始めていた頃、実家の取引先である大阪の社長にお会いした時に「就職はどんなところを受けているんや?」と質問されました。「商社か繊維関係に!と思っています」と答えたことを憶えています。
その人の「あのなぁ~、今、うちの会社は経営コンサルタントの会社で、日本マネジメント協会の船井さんという人に診てもらっているんや!若いけど(当時30歳後半)なかなかやり手の人や!これからコンサルタント業界もおもしろいと違うか?なんやったら紹介するで」という一言が私が船井会長と出会うきっかけとなりました。
それから経営コンサルタントを天職として既に44年の歳月が経ちます。船井会長にお会いしたのが、昭和44年(1969年)のことでした。そんなご縁で、私は日本マネジメント協会に入社させていただいたのですが、私は船井さんの所属する関西事業部ではなく東京本部に配属されました。
その時、船井会長は訳あって日本マネジメント協会を退職されていました。後々、当時の先輩上司に聞いた話ですが、「和田君は船井さんが採用したんだから、どうする?」という話になり、やむなく東京で採用配属したということでした。私はこの会社で実質2年半働かせていただきました。この期間は厳しくもありましたが、社会人のイロハを教えていただき、先輩方から可愛がっていただきました。
この頃のことは、鮮明に憶えています。良き先輩がいたから、下積み的な仕事ばかりではありましたが、仕事がおもしろく、経営コンサルタントという仕事に興味を失うことはありませんでした。本当に有難い期間であったと今でもその時の先輩方には感謝しています。
それから2年後に、船井会長から「東京に進出するから」と声をかけていただきました。25歳の時でした。この一言が私の人生を決めました。東京事務所は、六本木に当時としては豪華なおしゃれな金谷マンション(今でも存在)の部屋を借りました。大阪から先輩の松本治直さんという方が来られていました。そして日本マネジメント協会の東京の先輩の広瀬(旧姓・川島さん)幸子さんが入って、実質3人のスタートでした。
その頃、船井会長はこのマンションの一部屋にベッドを置いていて、ここで寝泊りされていたので、出張でこられた時は、川島さんか私が朝食を簡単につくって、何回か一緒に食べたことを憶えています。
まさに創業時で、信用も経済的にも“何もない”時でした。社名も日本マーケティングセンターと称していました。船井会長が40歳を少し越えた頃、他の社員も30歳前後か私のように20代、まさに「ベンチャー企業」でした。
世の中はダイエーが小売業の王者、三越の売上げを抜き、「スーパー」「量販店」「チェーンストア」と呼ばれた小売業がチェーン展開を始めて大成長し始めていました。ここからが船井会長が流通コンサルタントとして一躍名を馳せる時でした。
そして自他共に認める「船井理論」を世に問うたのです。「一番店理論」「包み込み戦略」「人間的性善説経営」等々です。
 その当時、このコンサルタント業界で、ほとんど小売実務経験の無い若手スタッフを食べさせていかなければならなかったわけですが、そこで生まれたのが小売業を対象にした「商品力調査」「競合店調査」「出店調査」の商品化でした。
商品力調査はいわゆる「量・数・巾」といいますが、量とは「在庫量」、数は「アイテム数」、そして巾とは、「価格の下限、中心、上限」を言います。競合店の店内にある主力商品の全品調査をし、それを「供給曲線」として表現していました。これはマーケティング調査のある種の発明であったと思います。これを生み出したからこそ、その後の会社の存続があったといっても過言ではないでしょう。
さらに、ダイエーやイトーヨーカ堂などの創業社長の前で滔々(とうとう)と私たちのような若手が話すことができたのは「事実をして語らしめる」という船井理論の実証があり、船井幸雄というその人が後ろ盾になっていてくれたからこそできたことでもありました。
 船井会長のコンサルタントとしての凄さは、外に対して言うことと社内で言うことがほぼ一致していたことでした。その一つが「長所を伸ばす」です。私は船井会長と25歳から35歳位まで、最も多くの仕事をし、しかも大手企業の仕事をさせていただきました。そして「和田君は、どんな人とでも仲良くなり、可愛がってもらえる長所がある。しかも大きく仕事が取れる。それが君の長所だ!」といつも言ってくださいました。多くの社員が船井会長に誉められて成長したと思います。
さらに、「固定客化、組織化が大事」と、自らコスモスコラブという経営勉強会、交流会を主宰し、そしてその後、全国にフナイクラブを創り、それぞれのコンサルタントが担当し「任せることで力をつける」ということを実践したのです。
そして、伝説的な言葉となって、今だ語り継がれている「素直、勉強好き、プラス発想」は、会社の行動指針となり、経営コンサルタントとして、人間としての価値観を植えつけられました。
 社員数が100人を超え、順調に業績を伸ばしていた頃、船井会長はある上場会社の社長から「船井さん、所詮、コンサルタント会社は上場もできないだろう!」というようなことを言われたことをずいぶん気にしていたことを講演などでも話すことがありました。
 そして持ち前の負けん気に火がつきました。それは会社を大きくしないでこのままやっていくか、上場を目指して、会社としての社会的存在価値を高めていくか」のどちらかを選択することでもありました。
 私は知り合いの監査法人の先生やその先生の知り合いの証券会社の役員と会う機会をセッティングしました。そして船井会長も自らが上場会社で特に親しくされていた丸井の青井社長ら何人かの方に様々な話を聞いたようでした。そして「上場する!」と目標宣言し、今日の船井総研の姿を創られました。
 船井会長との忘れられない仕事として、海外の会社の仕事があります。台湾の国泰グループ(当時)の百貨店の仕事、韓国サムスングループの新世界百貨店、大邸百貨店の仕事をさせていただいたのは1983年から1989年の頃でした。プロジェクトチームをつくり、大事な時に船井会長にも何度かご一緒いただきました。
 その頃、「和田君をはじめ、うちの会社もこういう海外の仕事ができるようになったんだな~!嬉しいよ!」と何度も言ってくださって、私も嬉しくて思わず涙が出たことを憶えています。
 創業から20年位は会社のお客様の息子さんや娘さんを預かるというか採用されていました。こういう点にも船井会長の「面倒見のよさ」がありました。人を大事にし、縁を大事にし、家族経営を標榜し、「三代にわたって『船井総研で働きたい』とわれるような会社を創りたい」と常々おっしゃっていました。
私は会社に入らせていただいてから、ずっと船井会長の側で働かせていただいた一人でした。上場してから最も重要な役職を拝命しながらも退職してしまい、既に24年がたちます。それでも船井会長はいつも「何か困ることがあったら来なさい」と言ってくださいました。
そして、創業15年がたって、私なりに、そろそろ船井さんにゲストスピーカーとして記念講演をしていただこうと思い、お願いをしたら、快く引き受けてくださったことを昨日のように想いだします。
私は自分の人生観から我がままを言って離れてしまいましたが、その時に決意したことがあります。それは「船井会長の顔に泥を塗るようなことは絶対にしない。恥をかかせない」ということでした。そして、この仕事をやり続ける限り、人様から「船井さんのところにいたのですか?さすがですネ!」と言われるように、人様のお役に立ち続けようと決めました。
私が今、こうして仕事をやり続けられているのは、まず船井会長との「出会い」があったこと、そして「指導をしていただき」「人間としてコンサルタントとしての生き方の基本を教えていただいた」からこそです。
これがない限り、今の自分はありません。感謝してもしきれません。ですから、船井幸雄さんの分子として、語り継いで行くことが、私の使命なのです。
船井幸雄会長、本当に有難うございました。

株式会社和田マネイジメント TEL 03-3457-6551

PAGETOP
Copyright © 和田マネイジメント All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.