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和田塾通信2015/2

2015年2月 和田塾通信〔№58〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『喜ばせ上手、喜び上手な人になろう』

致知出版社の新春セミナーにて、女優の山本富士子さんの話しを聞いた。彼女は勉強家だと思った。感性豊かな方だと思った。作家の五木寛之さんの話しの中に、この言葉があり「心に響いた」という。それ以来、自分に言い聞かせているとおっしゃっていた。私も大好きな言葉で、少しでも、そんな人になりたいものである。

戦後70年、先人の経営者に学ぶことは多い
―豊田佐吉と櫻田武―

まだ私が社会人になりたての頃、1970年代、高度成長期のピークを迎え、コンサルタント業界もまだ新しい業種であった。
まだ何も分からない若僧であったが、人一倍、好奇心だけは強かったから何にでも興味を持ち、知ろうとしていた。特に「日本の明治以降の経済発展は、何故起こったのだろうか?」というようなことに関心が強かった。
「産業=インダストリー」という概念は、明治以降に海外(西洋)から持ちこまれたものである。経済によって国家を隆盛させるには、産業というものが必要だとする「産業報国」という概念があるが、近代日本の株式会社を創った渋沢栄一や三菱グループの創始者、岩崎弥太郎、その後の豊田織機の創始者、豊田佐吉などは、みな「産業報国の精神」、つまり、事業を通じて国家繁栄の役に立つという想いが大変強かった人たちであった。
豊田佐吉は、今のトヨタ自動車の原点であるが、なんといっても明治から大正にかけて「自動織機の発明王」としての存在は輝かしいものがある。
特に大正15年(1926年)当時に、1人の女工が4,5台しか動かすことができなかった動力織機であったが、佐吉のつくった自動織機は50台を動かすことが可能であった。実に10倍以上の人生産性である。
佐吉は21歳の頃から織機の発明を志し、60歳で完成をみる。実に40年の歳月を要した。その後、この発明の特許をイギリスの会社に譲渡するのであるが、世界からこの発明は称賛されるほど画期的なもので、まさに「世界の織機王」になった瞬間であった。
この豊田佐吉が「産業報国」に力を入れた具体的なことがある。自ら、自動織機の発明を志すばかりでなく、日本人の発明能力の開発にも努めている。大正12,3年頃には、蓄電池や発明奨励の目的で、帝国発明協会に当時のお金で100万円もの寄付をしている。
その狙いは二つあった。一つは、日本人の白人に対する智能の挑戦。第二の狙いは国富の培養である。「国家にしても個人にしてもその独立存在を確実にするには、智恵ばかりではなく、物質的にも経済的にも富まなければならない。国民が貧乏であってはならないと」いうことであった。
佐吉が当時の最先進国、イギリスに特許を売ったということは、まさしく日本人の優秀性を知らしめることになり、世界最先端の機械によって輸出産業を育成し、日本を富強にすることに貢献したのである。まさに報国の志である。
そして1930年、昭和5年に佐吉は死去するのであるが、その佐吉の意志を継承するために、「豊田綱領」が定められた。その最初の二条は次のようなものである。
一、上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を拳ぐべし
一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし
これは今だトヨタ自動車グループの精神として脈脈と流れている。そして佐吉は晩年「これからは自動車工業だ」「日本も立派な自動車をこしらえなければ世界的な工業国といって威張れぬ」と口癖のように言っていたという。
それが100年後の今日、世界№1の自動車企業になっているわけだから、いかに「志」とか「至誠」とか「独自の技術」「基本」などが経営において大事かがわかる。そして実践をしなければ何も得られないことも証明している。
私がまだ20代の頃、1970年代の日本は、中小企業があらゆる分野において数が多く、今でも変わらないかも知れないが、やはり大企業は歴然とした力を持っていた。 
そして戦後、日本の大企業を中心に大きな団体が設立された。一つは、経済団体連合会(経団連)で、もう一つが日本経営者団体連盟(日経連)である。
中小企業やベンチャー企業の経営者といえども、この二つの団体については少し知っておいた方がいいので、簡単に書いておく。
経団連は、1946年8月、日本経済の再建、復興を目的として誕生した。現在1,309社が加盟している。
一方、適正な労使関係の確立を目的として1948年4月に先行して結成された業種別・地方別経営者団体を基盤として発足したのが日経連だ。
経団連は、貿易の自由化、自由競争の促進、行財政政策の推進、環境問題への取り組み、民間経済外交の推進など経済界が直面する内外の重要課題の解決と、自由主義経済の維持、活性化を通じ、わが国ならびに世界経済の発展に寄与してきた団体である。
一方、日経連は「経営者よ、正しく強かれ」をスローガンに労働問題を専門的に扱う経営者団体として一貫して「人間」の問題に軸足を置き、春季労使交渉をはじめとする賃金交渉への対応など、安定した労使関係の構築に貢献してきた。
しかし、両団体とも、時代の変化の中で少子高齢化、社会保障制度改革、雇用問題など、国民の意識や価値観の多様化が進展してきた。その対応のため、二つを一つに統合することで経済界全体で、この課題を乗りきろうと、2002年5月に統合、「日本経済団体連合会」が発足した。
経済団体連合会が第10代の時に統合し、その時の会長はトヨタ自動車の奥田碩会長であった。現在は13代で東レ会長の榊原定征が就いている。
さて、話しを少し戻すが、私が20代の頃に、日経連の代表をされていたのが「財界四天王の一人」といわれた櫻田武(当時、日清紡会長)であった。
私は、船井幸雄さんから「櫻田武さんのことは少し知っておいた方がいいよ。自分も会ったことはないけど、繊維業界(当時、船井さんは繊維業界の仕事が多かった)では、もの凄い経営者だと評判なんだ」と聞いていた。
昭和30年代、経済評論家、三鬼陽之助が命名した「財界四天王」は、時の池田勇人内閣を表裏から支えた財界の重鎮である。その4人とは、
 ●小林中(富国生命保険相互会社元社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油元社長)
 ●水野成夫(経済同友会元幹事、産経新聞元社長、フジテレビ元社長)
 ●永野重雄(日本商工会議所元会頭、富士製鐵元社長)
 ●櫻田武(日経連元会長、日清紡績元社長)
であった。
この櫻田武の詳細は省くが、何故、日清紡績が繊維業界の中で確固たる地位の会社になり、また、時代の先端を行くような戦略をとれたのか、それはせんじつめれば、良き師との出会いにあったということであろう。
彼はもともと東大法学部卒で、柔道部でならした文武両道にたけた秀才であったが、その師は、日清紡の社長、宮島清次郎(1879~1965年)である。宮島は櫻田の経営指南役となり、41歳で櫻田武氏を日清紡の社長にする。異例の抜擢であった。
おもしろい逸話が残っている。宮島清次郎氏に国から叙勲の話しがあった時に、「男子が一生かけた仕事に官僚たちに勲何等なんて等級をつけられてたまるものか!櫻田、お前、行って断って来い!」という宮島の厳命を受けた櫻田は叙勲辞退の使い役となる。
その後、櫻田自身も叙勲の話しがあったのだが、師の宮島に倣い、躊躇なく、これを辞退している。
さらに、「金は会社のために使え!」と会長引退に際して、退職金もいっさい受けとらず、自身の胸像もつくらせなかった宮島は、尊敬する“日本資本主義の父”渋沢栄一の「私利を追わず公益を図る」という精神を貫いた。
櫻田もまた師の宮島にならい、渋沢栄一の指導者たるものの“心構え”を学び実践した。
その櫻田の経営者としての能力は、先見力とか事業構想力が高く評価されているが、注目すべきは、なんといっても、その人間性、高潔な会社経営に対する姿勢であろう。
特に「会社は公器である」を自らの経営理念に位置づけており、「会社は所詮、預かりもの。預かりの精神のない社長は失格だ」という考えであった。
そして「たいていの大きな失敗の原因は、自身の傲慢さが底にある」と言っている。この櫻田の考え方は事業の永続性、あるいは事業承継などの考え方に最もふさわしいものであると思う。そして、この考え方が日本人の経営者に大きな影響を与えてきたことも確かである。
現在も大変革期だ。しかし、豊田佐吉の生きた明治から大正と昭和、また櫻田武が経営者として活躍した戦後復興から経済成長期にかけても、いずれも変化!変化!の時代であった。
その時代においても、大きな国家的な着眼から自分のやっていることを見て、荒波を乗り越えてきたその精神、生き様に学ぶことは大きい。

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