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和田塾通信2015/3

2015年3月 和田塾通信〔№59〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『僕は教えることはできませんが、一緒に学ぶことができます。共に励みましょう』

この言葉は、吉田松陰が、高杉晋作や久坂玄瑞らの弟子たちが、塾に入門する時によく使っていた言葉だという。松蔭はどんな時にも上から目線ではなく、「共に学び合う」という姿勢で、互いに人間的成長を追及していく考えをもっていた。

戦後70年の消費と経済成長の根本を知る
―ヨーロッパ型と「米国型」―

「戦後70年」というキーワードを使って、この和田塾通信を書くのは3回目になる。明治維新から約150年、日本は欧米、いわゆる当時の先進国であった西洋から国づくり、政治、法律、物づくり、生活スタイルまでを含めて学び、取り入れ、近代化をはかってきた。
ある時代のある国の“消費”の質と量を決定するのは「その国の経済成長の成長段階」と「所得と資産の分配構造」と「家計構成員の価値観とその力関係」である。
そしてその「マクロ的な消費と質と量」が「産業構造」を変化させ、ひいては「経済の成長段階」や「所得と資産の分配構造」をも変化させていく。
経済学者ケインズを信奉した学者や古典派的な財政金融政策や租税政策は「経済の成長速度」や「所得と資産の分配構造」「産業構造」などに影響を与える。
また憲法や民法、義務教育や老人医療の無料化、世論といった社会政策や制度、社会的価値観などが「各個人と家庭の価値観と生活様式」に影響を与えるという考え方を示した。
これを図にすると右上の図のようになる。それは日本では、明治維新を境に始まったともいえる。欧米型資本主義の考え方や制度を取り入れたからである。
日本の近代化が工業化=西洋化として始まった以上、明治以降の日本の「経済成長段階」や「分配構造」の変化、さらには「経済政策」や「社会政策」等の各種経済構造の変化のすべてはヨーロッパないしアメリカの経済構造をモデルとしたことによるものだ。
しかし、戦前の日本の経済構造はアメリカよりもヨーロッパに近づく形で形成されていった。それは
①国民経済の規模がアメリカよりも小さくヨーロッパ各国に近いこと 
②明治以前の日本の歴史がアメリカよりもヨーロッパに似ていること 
③さらに、明治以降も第2次大戦までは、アメリカよりもヨーロッパを範に“近代化”を推進したこと
による。そして、その結果、「所得と資産の分配構造」は分散度が大きく、不平等になった。つまり「社会的価値観」としてもいわゆる「身分違い」という言葉にあらわされるような強い階級意識が存在していたのだ。
これはヨーロッパに貴族社会が存在していたように、日本でも、明治以降は貴族社会が存在し、いち早く財を築いた人たちと一般庶民の間には、経済的にも身分的にも歴然とした格差があった。
現在、“格差社会”と言われているが、実は明治から戦後までの約50年間、もっとすさまじい格差があったのである。
したがって当時のヨーロッパの社会的階級の存在は、消費者の形態もアメリカとは著しく異なっていたという。
このため、戦前の日本の国内消費市場は
①分配の不平等という経済的要因と ②消費者の階層意識という社会的、心理的要因との二つによって細分化されていたので「高度大衆消費社会」に到達することはきわめて困難であったと多くの学者は指摘していた。
これは仮説であるが、もし、第二次大戦による敗北がなくて、アメリカ型の経済の仕組みが導入されていなかったら、戦前のような経済的、社会的構造のもとでは戦後の高度経済成長に見られたような、大規模な“高度大衆消費”は実現できなかったであろうとも言われている。
戦前の日本は貧しく、技術的にも冷害などの自然災害を乗り超えるものはなかった。そこで一部のリーダー、特に軍が中心になって需給ギャップをうめるために、他国への侵略という無謀な経済的誘因を求めたとも言われている。経済大国を創るために、他国の侵略という悲劇を生んだのである。
チェコのブタペスト生まれの心理学者であり、経済学者でもあるG・ガードナーは、のちに米国に移住した。彼によると、アメリカの消費者行動は所得の大小によって区別されるだけであるが、ヨーロッパの消費者行動は所得の大小だけでなく、階層意識の上下によっても区分されるという。
ヨーロッパでは、自分たちを労働者階級と意識している家庭は、いかに所得が増えても労働者階級としての消費行動を守り、ブルジョアや貴族の消費行動を真似ることはないという。
確かに、日本人やアジア人の大好きなヨーロッパの有名ブランドは貴族が職人たちにワザを競わせて作らせたものが今日に至っている。エルメスやフェラガモ、ルイ・ヴィトンはその代表的なものだ。
日本でも戦前は「人々は、おのれの分を知り、やたらに他人をうらやんだり、ねたんだりすることはなかった」とかつて社会学者が言っていたことを覚えている。
しかし、この階層意識、すなわち社会的不平等の是認は戦後の民主改革と高度成長による都市化とで消失した。
第2次大戦の敗戦によって、日本はアメリカに占領され、一方的にアメリカを範とする“民主化”すなわち“間接的アメリカ化”があらゆる面で強制された。
そして、この70年、コンピュータ社会、金融社会やライフスタイルなど、全てアメリカからのモノとコンテンツ(ソフト)の輸入によって、戦後の社会が築かれてきたのである。
直近の政治的な話題になっている「TPP問題」にしても、「農業のアメリカ化」、すなわち「取り込み」にほかならない。戦後すぐに①農地改革、財閥解体、財産税などによって、「資産の分配構造」は徹底的に平等化し、②新憲法の公布、民法の一部改正、教育制度の改正等により「社会的階層意識」の基盤が覆された。
つまり、戦後の日本経済の仕組みとして、一つは、国鉄や専門公社、あるいは電電公社、日本郵政などの社会的重要度の高いものは、国が直接関与をし、政治家と官僚の利権の組織になったが、平成になってから、徐々にではあるが「規制緩和」の名のもとに民営化が行われている。それも戦後50年たってからの動きである。
もう一つ、効率性を最重要視する自由競争システムと技術革新とを導入し、日本経済の高度成長が可能になった。そして、経済的平等化によって、同質的な強い国内消費需要が発生した。これが「大量生産、大量販売時代の到来」だ。
特に1950年代、1960年代以降、時の通産省(現・経済産業省)は、国家の経済力と国際競争力を高めるために、産業の再編成やエネルギー政策を打ち出した。
また、輸出競争力を高めるために、規格統一された大量生産によってコストを下げる生産システム(トヨタのカイゼンやQC活動、ゼロ運動など)を官民あげて研究し、実践に活かした。
そして低価格ではあるが、品質の高い「メイド・イン・ジャパン製品」を作り、輸出力の強化をはかったのである。これが日本の工業化社会を築いた。
しかし、この「物づくり」の仕組みが2000年以降のITの時代になって、かえって邪魔になってきている。
高度成長期、労働力を都市に呼び込んだ(集団就職など)結果、都市に労働力が集中し、農業や自営業からサラリーマンになる人が増えていった。
50年前に約1,200万人強いた農業人口も今は250万人位になっていて、それも日本の農業の問題となっている。漁業にしても、ピーク時に約80万人いた就労者は現在20万人を切るという危機的状況だ。
つまり、経済の発展は一つの「産業構造の変化」をもたらしたのである。都市化とサラリーマン化が社会的な平等意識を生活レベルにまで浸透させた。
そして生活様式(ライフスタイル)における階層性を徹底的に追求していったのが1950年位から1980年代半ば位までの期間である。
この頃は、マーケティング的にとらえると、主導権は大手消費財メーカーがもっており「メーカー型マーケティングの時代」と言ってよいだろう。例えば、繊維でいえば、素材メーカーの東レ、帝人とか紡績のニチボウ(後のユニチカ)やカネボウなどが企業的にも力が強く、繊維の元(もと)を握っていた。
まだその頃は、一般消費者の消費力(購買力)も弱く、小売店の力も弱かった。価格の主導権はメーカーが握っていたといえる。
そして1970年代から1980年代の20年間は、量販店の成長期と成熟化の時代であった。専門店をテナントとしてファッションビルを構築したパルコが花開いた時期でもあり、消費者の収入増とともに「業態の多様化」が始まった時期でもあった。
消費者サイドからも「個性」ということが重んじられるようになり「消費の多様化」が始まった時でもある。
マーケティングは「小売業型マーケティングの時代」に入った。消費者のことを、つまり、消費者の情報(買い方や好みなど)をいち早くつかむことができ、売場情報(商品情報)や顧客情報(購買情報)を大量に収集できるテクノロジー=情報武装のハードとソフトが開発されたことによって、現場の情報主導権を小売業が持てるようになったのである。
まさに「工業化社会」から「情報社会」へのパラダイムシフトが起こった。
80年代のマーケティングや物づくりの潮流は「個性化の始まり」と「多品種少量」、そして「軽薄短小」であった。
そして80年代後半のバブル経済、バブル消費によって「高価格」「一点豪華主義」「高級ブランド品」が全盛になった。
あっという間にバブル崩壊を迎えたが、この80年代こそが完全にアメリカ型経済システムが日本に根付いた時期であったと思う。一方で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本のメーカー製品は、アメリカで狙い撃ちされ、不買運動などが誘発された。
しかし、この時期のレーガン大統領時代に、アメリカは次の成長戦略を企てていたのである。それは、新しい金融資本主義とインターネットの普及前のIT社会への準備であった。
新しい金融資本主義は、コンピュータの開発とリンクする。特に「投資銀行」や「ヘッジファンド」などの新しい金融ビジネスは、新しい知恵を必要とした
これこそが、その後のアメリカの世界戦略だった。そして、バブル経済、バブル経済崩壊後の1990年代半ば以降に日本に進出してきて、日本の不良債権を買いまくったのが「アメリカファンド」であった。
それから20年、リーマンショックはあったものの、日本の金融システムの中で「リート」や「ファンド」として、アメリカを中心とした「ファンドマネー」がハゲタカのように泳いでいる。そして「規制緩和」の名のもとに新しいビジネスが生まれ始めた。
金融とインターネット(IT)は1990年代から現在に至るまで、日本の工業化社会の終焉と共に、日本の産業構造を大きく変える引き金になったのである。
次回は日本の成熟化社会とその後のビジネスについて書いてみたいと思う。

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