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和田塾通信2015/5

2015年5月 和田塾通信〔№61〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『誰かが時代の変化の風を感じ、その風に立ち向かい、新しい時代をつくっていくものだ』

わずか約150年前に、日本はサムライの時代から近代社会への移行をとげた。「西洋列国に屈してはならない」ということを長州や土佐の若き藩士達がとなえ、新しい国づくりのために動き、それが明治維新のきっかけになった。今、日本のおかれている状態は、その頃より複雑で混迷しているかも知れないが、今こそ本物のリーダーが必要な時だと思う。

戦後70年―日本の近代化と産業社会は
長崎から始まった!!―

今まで3回にわたり「戦後70年」というテーマで書いてきた。そして今回改めて長崎を訪問して知ったことがある。それは、長崎は日本の近代化、産業社会のスタートにあった町だったのではないかということだ。
明治の近代化は、長崎からどのように始まったのか。現在、グローバル社会と言われているが、江戸から明治に変わる引き金になった明治維新は、今とは比べられないほどの短期間に、しかも国の制度そのものが“グローバル化”したのである。
明治維新とは、250年も鎖国状態が続いた江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親王体制の転換と、それに伴う一連の改革をいう。その範囲は中央官制、法制、身分制、地方行政、金融、流通、産業、経済、文化、教養、外交、宗教、思想等々、実に多岐に及んでいた。
これを考えると、今の日本の状況から考えたら、少なくとも明治維新から学ぶほどの「維新」とまでいかなくても「改革」をしなければ、将来の日本は危うい。
その明治維新は黒船来航に象徴される欧米列強の経済的、軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。これに代表されるように、従来の幕府体制を維持するグループと、このままでは西洋列国に日本は占領されてしまうというグループに分かれて、最終的には倒幕、維新という道が開かれた。
長州藩の吉田松陰は、下田沖にペリーが日米和親条約締結のため再航した際、密航しようと金子重之輔とくわだてた。1854年(嘉永7年)のことであった。
土佐の坂本龍馬も明治維新実現のために革新的な藩を訪れ、維新を説いた。その坂本龍馬は脱藩し、幕臣、勝海舟のもとで航海術を習得する。そして当時、外国と最も交流の多い町として栄える長崎を訪れ、日本初の貿易会社をかねた政治結社「亀山社中」を結成し、海運業で才能を発揮する。このような活動がその後の日本の近代化、産業化の礎となるのである。
「社中」とは、人が集まるという意味であるが、亀山社中は軍事的、政治的、かつ商業的な組織であった。
龍馬やその同士は勝海舟の引き立てにより西郷隆盛に世話をみてもらうことになる。亀山社中は、その後「海援隊」に改称された。龍馬が隊長となり、海援隊規約、それを船印として「赤白赤」の旗印も決めた。この旗は「二曳(にびき)」と呼ばれた。
この時、海援隊の会計を担当していた土佐出身の岩崎弥太郎が後の「三菱」の基礎をつくる。その船舶部門が現在の「日本郵船」につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークだ。やはり「二曳」と呼ばれている。
実は、長崎が近代産業の始まりと言われる所以は、この船=造船とのつながりが深い。現在の三菱重工業、長崎造船所(本工場)は1857年(安政4年)に日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕府から明治政府に管理が移った後、1887年(明治20年)、三菱に払い下げられ、以後、民営の造船所として多数の名だたる艦船を建造した。
長崎市を一望できる稲佐山から見ると、長崎湾はまさに天然の港として、その価値が高いことがわかる。いまだ三菱重工業、長崎造船所は、その湾に一体化するように存在しているし、4月の初旬、その湾には、その造船所で造られた世界最大級の11万トンもある「サファイアプリンセス号」がアジア航路途中で、この湾を占領するように停泊していた。
日本の近代化の発祥の地である長崎は、前述した通り、江戸後期の19世中期から始まり、20世紀初頭、完成期に達した。
この過程に、薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩など、幕末の維新派の諸藩の若い志士達の燃えるようなエネルギーがあったからこそ近代化へと時代も動き始めたのである。
彼らは今でいう「志ある起業家」であった。若きサムライたちが自ら刀を廃し、代わりに西洋の技術書を手に西洋の技術を模倣する。この試行錯誤による地道な実験が近代化を成功へ導かせたのである。
政治も経済も会社経営も世界には常に先進的な人間、革新的な国家、組織が出現することが有史以来、実証されている。
コンピュータの創造もそうだし、20世紀に入ってからのグーグルやアップル、フェイスブックなどが今、情報というキーワードで世界を大きく変えつつある。これもまさしく「現代の黒船」である。
話は戻るが、1840年、つまり江戸末期の約2年間に渡ったイギリスと中国、清との戦い、「アヘン戦争」は、イギリスの勝利に終わり、これをきっかけに日本も開国を求める外国船が現れるようになる。その中でも日本人の度肝を抜いたのが「黒船来航」だ。
第一次産業革命は、蒸気船に見るようなエネルギー革命でもあった。当時の和船の2.5倍以上の蒸気船、大きな煙突と重厚な大砲を備え、風がなくとも進む大型船への驚愕と興味、こんな強国と戦って勝てるのだろうか?そして日本はこれからどう進んでいってしまうのか?この現実を見た若きサムライたちは、それを機に世界に目を向けたのである。
危機感を持ったのは幕府も同じだ。国を守るためにすぐさま「大型船舶の建造禁止令」を解き、外洋でも航海できる艦船の建造と海軍の創設を計画する。
そして長崎出島を通じて西洋科学技術の入手に必死になる。サムライたちの急務は、まず大砲を製造すること、それには質の高い鉄が必要であり、その鉄を造る工場も建設しなければならなかった。
サムライたちが参考にしたのが、オランダ人将校、ユーリッヒ・ヒューゲニンが書いた「ロイク国立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」である。
蘭学者、伊東玄朴が翻訳し、刀工や鋳物師らの伝統技術を結集、西洋技術者のいないこの時代に、参考書だけを頼りに鉄を精錬するための高炉と反射炉の建設が実現されたのである。
江戸から明治への移行の中で、日本人の優秀さが証明された。その維新から産業化が推し進められ、世界有数の産業国家に上り詰めるまでに要した期間はわずか50年余、世界史的に見ても例のないスピードとプロセスであった。
日本が辿ったその奇跡の変遷を見ることができる「明治日本の産業革命遺産群」は8県11市に立地する23資産で構成されている。
岩手の釜石(鉄鉱山と高炉跡)、これはのちの釜石製鉄所。そして静岡・韮山の反射炉、山口・萩の反射炉や松下村塾などの5つ、北九州・八幡には2つ、佐賀には三重津海軍所跡、炭鉱の町、三池には2つ、鹿児島には3つ、そして最多数となる長崎には高島炭鉱や旧グラバー住宅など8つある。
1855年、「長崎海軍伝習所」がオランダの助けを借りて開設され、次に実習に使う蒸気船の修理施設が必要になった。幕府は1857年に長崎鎔鉄所(のちの長崎製鉄所、三菱重工業株式会社、長崎造船所の前身)を建設した。
船舶用のエンジンの修理に加え、軍艦のメンテナンスができる近代的設備を目指し、有能なオランダ人技術士を雇い入れた。それがオランダ海軍機関士ハルデスだ。
彼はオランダ語もわからない日本人に辛抱強く、丁寧に、工場を作るため、レンガの焼き方から指導し、また、最新の工作機械を導入して、近代的な工場群を完成させた。これが基盤となり、日本の造船業、すなわち、近代化、産業化は、ここ長崎から幕を開けたのである。
最後に、この日本の近代化に貢献した人たちに焦点を当ててみる。1859年の開港と同時に長崎にやってきたのがスコットランド出身の貿易商、トーマス・グラバーである。当時まだ21歳であった。
1861年に23歳でグラバー商会を立ち上げ、長崎製鉄所、そして港が見渡せる外国人居留地に木造洋風住宅を建てた。この場所には多くの外国人、また幕末の志士がそっと足を運び、西洋と日本を結ぶ技術・情報・交流の場の中心となっていた。
商人としてもやり手だったグラバーは、薩摩藩士の五代友厚から依頼された船の斡旋を機に、薩摩藩や長州藩などの西南雄藩へ艦船や武器の密貿易を始めた。本来ならば、船の輸入は幕府の許可が必要であり、武器などの輸入は禁止されていた。
しかし、倒幕を考えていた藩にとっても、そして、グラバーにとっても利害は一致していた。しかもグラバーは長州藩や薩摩藩の藩士たちをイギリスに密航させるという自分の身も危うくなるほどの肩入れをしている。
明治の近代化を考える時、「もし、グラバーがいなかったら、はたしてどうなっていたのだろうか?」と歴史の不思議さを思わざるを得ない。
また、イギリスで発見された報告書の中にも「グラバーは日本語を短期間で習得し、流暢に話し、武士クラス(高いランク)の日本人たちと親交が厚く、彼らから非常に尊敬されている」という一文があったという。そして「グラバーの人間的性格、スコットランド人気質が当時のサムライ志士達と波長があったのだ」とも言われている。
その後、グラバーは蒸気船時代に必要な燃料の石炭採掘にイギリスの近代手法を導入し、長崎の高島炭鉱や三池炭鉱に近代的技術の導入を実施、当時としては、世界トップクラスの炭坑へと導いた。
その後、グラバー商会は倒産するも、グラバーは三菱の創始者、岩崎弥太郎のアドバイザーとなり、海運業から多角的な経営のサポート役となった。
また、弥太郎の息子、弥之助にも仕え、現在のキリンビールの前進である、ジャパン・ブルワリーの設立に尽力した。
そして、グラバーのもう一つの功績は「長州ファイブ」と言われる長州藩5人のサムライを1863年に横浜から密航させる手助けをし、ロンドン留学をさせたことである。
その5人とは、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝。この5人がイギリスに渡り、産業革命後のイギリスの発展を目にしたから、近代化が加速的に進展したのである。
特に伊藤博文は、1885年、44歳の若さで初代内閣総理大臣になり、さらなる産業の発展と新しい国づくりを推し進めた。
1885年、彼の責任の元、発議された「製鉄所設置建議案」が国会で可決され、1901年にはドイツの技術を導入した「官営八幡製鉄所」が建設された。
北九州は豊富な石炭を産出する筑豊エリアに近く、また、海に面し、原料、燃料、製品等の輸出に便利な立地であった。
その後、八幡製鉄所は1910年に鋼材生産量が15万トンを超えた。八幡製鉄所は日本初の鉄鉱石から鋼材の生産までの工程を行う、鉄鉱一貫製鉄所として完成を迎えたのである。
井上馨は初代外務大臣となり、外国と条約づくりをした。山尾庸三は明治政府の工部卿(後の鉄道省、農商務省の前身、その長官)となった。井上勝も鉄道庁長官となり、鉄道事業の発展に尽力した。
遠藤謹助は造幣局長になった。造幣局は薩摩スチューデントで、ロンドンに学んだ五代友厚が政府に進言し、開設されたものである。それを助けたのもグラバーだ。彼は香港造幣局から機械一式を6万両で購入できるようサポートしている。
そしてロンドン大学に学び、日本工業の祖となった山尾庸三は「例え今、日本に工業がなくても人材を育てれば、その人達が工業を興すだろう」という有名な言葉を残している。
西洋の科学技術と出会ったサムライ達は、西洋からの産業革命を受け入れ、新しい日本をつくるために命をかけた。彼らの燃えたぎるような情熱と志、努力、知恵こそが日本を植民地にさせず、江戸幕府崩壊から僅か50年という短い年月で産業化を大成させた。それも長崎から始まったといえるのではないだろうか!

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