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和田塾通信2015/6

2015年6月 和田塾通信〔№62〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『成徳達材(せいとくたつざい)』

この言葉は毛利藩の藩校、明倫館の考え方からくるものである。『成徳達材』とは、心を育て、才能を伸ばす・・・という意味。この考えを今も萩市立明倫小学校は教育の基底とされている。さらに、もう一つの教育基底として、吉田松陰先生(松陰教学)を教育精神としており、毎朝、全校生徒が松陰先生の言葉の朗誦を実践している。

戦後70年―明治維新から148年。萩を訪れ、その精神の源流から学ぶ―

この和田塾通信の5月号(前号)で、明治からの日本の近代産業は長崎から始まったことを書いた。その時に、長州や薩摩の倒幕派の若き志士たちが近代化に大きく貢献したことは確かであり、彼らがいなかったら、明治維新は成し得なかったかも知れない。
明治維新とは「狭義には、江戸幕府が崩壊し、天皇を中心とする新政府が成立する過程であり、1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古の大号令、翌年の鳥羽伏見の戦い、五箇条のご誓文などがその画期をなす。
広義には、日本の近代化を創出した一連の過程。明治政府が行った廃藩置県、秩禄処分、地租改正など様々な改革も含まれ、その始期と終期については諸説ある」と記されている。 
250年余続いた徳川幕府が築いてきた制度そのものが行き詰まりつつあったその時に、世界は新しい時代に入っていたが、日本が外国に侵略されるといった発想や実感はなかったといえる。
ところが大航海時代、産業革命を成し遂げたイギリスは世界に進出し、インドや清(中国)、東南アジア諸国を植民地化しつつあった。米国による帝国主義を掲げ、アフリカ、アジアへの進出、侵略、植民地化は東アジア各国にとっても脅威となっていたのである。
アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリーが黒船で来航した時には、長州の吉田松陰と金子重之輔が、日米和親条約締結のために下田沖に再航していた船に乗り込み、米国行きを企てたが、捕らえられるという事件が起こっている。1854年、明治維新の13年前のことであった。
幕末は、「開国」を主張する徳川幕府や薩摩藩とあくまでも「鎖国」の維持を主張する長州藩の対立となった〔長州藩の中にも革新派(開国)と保守派(鎖国)に分かれて対立していた〕。
ところが、欧米列強の圧力による修好通商条約に天皇が勅許を出した(1865年、慶応元年)ことにより、「攘夷」と「尊王」は結びつかなくなった。
しかし、その後「開国」と「攘夷」を合体させ「欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国しても国内統一や富国強兵を優先すべきだ」という大攘夷論が唱えられた。このことにより、一挙に「倒幕」という一つの行動目的へと進んでいったのである。
土佐藩の坂本龍馬らの斡旋や仲介もあり、当初は敵対していた薩摩と長州の二大地方勢力は倒幕へと向かっていくことになる。
このような「倒幕」―「明治維新」―「明治政府誕生」という大革命を成し得たのは、当時の二十代から三十代の血気盛んな若者達が崛起(くっき)したからに他ならない。
特に吉田松陰自らも新しい国づくりのために動き、結果として1859年(安政6年)、死罪に処せられる。明治維新の9年前のことである。
松陰先生の辞世の句、家族に宛てたものとして「親思ふ 心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん」はあまりにも有名であるが、この句に出会うたび、かの戦争において特攻で戦死した若者が父母にあてた手紙を想い出す。どこかに「無念」という気持ちがあっても不思議ではない心境が共通しているように思えるのである。
この松蔭先生門下の四天王といわれたのは久坂玄瑞、高杉晋作(この二人を「双璧」と呼ぶ)、吉田稔磨(久坂、高杉、吉田を「三秀」と呼ぶ)、そして入江九一の四人であった。
山口の史誌に次のような記載があったので記しておく。「今から150年前の長州藩は、革新派と保守派の激しい内戦の末、革新派が実権を握る(ほとんどが松下村塾で学んだ若者達である)という大きなうねりの中にありました。
革新派には士分のものばかりではなく、商人や農民も参加し、まさに『草莽崛起』、民衆の力が結集し、大転換を起こしたのです。
禁門の変の後(長州藩は朝敵となる)、幕府への謝罪を決めた藩政府は、革新派の諸隊の解散を決めましたが、諸隊が従わなかったため、いざとなったら、弾圧しようと兵を出す態勢に入りました。
幕府への抗戦を叫ぶ改革派の中心人物、高杉晋作は、状況の展開を読んで1864年12月15日に下関功山寺で公家の三条実美に「長州男児の肝っ魂をお見せしましょう!」と言って決起しました。
それに即座に付き従ったのは伊藤博文率いる力士隊と、所郁太郎率いる遊撃隊でした。晋作は、下関の萩藩会所を襲い、その後、海路で防府三田尻の海軍局を襲い、癸亥(きがい)丸を奪いました。
また山県有朋率いる奇兵隊や八幡隊、南国隊などの諸隊は、最後の話し合いを求めて萩城下町へ進軍したのです。
一方で、高杉晋作は山口の庄屋、吉富簡一に密書を送り、軍資金の調達と井上聞多の脱走を相談します。1865年1月6日、話し合いの余地なしとみた奇兵隊諸隊は、絵堂(現・美弥市)に陣取った藩政府軍を襲撃しました。内戦の始まりです。
16日までに大田、絵堂で4回戦い、奇兵隊諸隊が勝利しました。この勝利こそ民衆の応援が力になったものなのです」
長々と書いたが、この長州藩内の動きが明治維新への前哨戦となったのである。その後、長州藩は朝敵となり、外国との貿易が許されなかったため、薩摩藩の名義で鉄砲や軍艦を購入、着々と幕府との戦いに備えていった。これは坂本龍馬が薩長同盟で和解を勧めてくれたからである。
藩政をとる木戸孝充の命令で、長州ファイブで渡英した経験により英語が堪能だった井上聞多(のちの井上馨)と伊藤博文が長崎に派遣された。そしてイギリスの商人、グラバーと面会し、7700挺の小銃を購入、長州は幕府軍と戦い、勝利するのである。
この一連の活動「倒幕」―「明治維新」までに、松下村塾で学んだ若者は大きく二つに分かれる。一つは久坂や高杉のように、双璧と呼ばれた秀才が、師匠である松陰先生と同様に若くして命を失う、その一方で、伊藤博文や井上聞多、山県有朋らのように、明治政府確立の立役者となり、その後も新しい日本の体制づくりに活躍する者がいる。
伊藤博文は44歳で初代内閣総理大臣になり、産業の発展に尽力する。これまでが幕末における長州藩内における動きである。これらの全ての源も、吉田松陰先生の、その存在なくして語れない。
ここで、辺境の地、萩の松下村塾で国を憂い、新しい国づくりのために、人財づくりに注力した松蔭先生の「人財づくり」への考え方をまとめてみる。
1.師弟同行、師弟共学の考え方をモットーとしていた
①「いっしょに励みましょう」(入塾生に必ず言う言葉)
②野山獄での1年6ヶ月で600冊の本を読破したという超勉強家。自らが獄中で学び続ける姿に他の囚人ばかりか牢番までもが引き込まれた
③短い期間ながら、長崎、江戸などに師友を求めて学ぶ旅を実行。松蔭先生は、問題意識を常に持ち、識者に会い、意見を求め、議論をし、著書を借り受け、書写し、さらに次の師を求めて旅を続けるという学び方であった
④密航が失敗して幽囚の身になってからも弟子たちを通じ、国内外の情報収集を怠らなかった。それを「飛耳長目」というノートにまとめ、塾生に読ませていた
2.実践してこそ真の学問であると「知行合一」の考え方を持っていた
①秀才、久坂玄瑞との問答で、らちのあかない久坂に対して最後通告として「君は君の言葉通り、断固実行してほしい。もし、そうでないと、僕は君の大言壮語をいっそう非難するであろう」と言っている。つまり、松蔭先生は「いくら理屈を言っても行動、実践しない者は、真に信頼できない」ということを言いたかったようである
②実践が第一、知ることは手段であって目的ではないという考え方。経営者も同様である。学んだことから取捨選択をして、実践すること。「何のために学んだのか?」を私もいつも問いかけている。松蔭先生は常に「君ならどうする」を問い、考えさせた。そこから塾生個々の不足の分を気づかせる。
「知にして行を廃するのは、真の知にあらず。行にして知を廃するは、実の行にあらず」と言い「知は行の本、行は知の実。二つのものは離れることができない」と松蔭先生は考えていた
3.個性を重んじる教育を実践した
①人間それぞれの個性、すなわちそれは長所であり、短所でもある。松蔭先生はそれぞれの長所を見つけ、それを伸ばす動きをされた
②友人同士の切磋琢磨を大切にした。すなわち、友は師であり、ライバルでもある。ともに志をもった者が学び競い合うことで成長できる
③「気を奮え!」は松蔭先生の口癖。中でも「浩然の気」を重視した。孟子の言葉に「我善く吾が浩然の気を養う」があるが、天地の間に満ち続けている非常に盛んな精気を言う。そのために友との切磋琢磨を活用した
④自分で「自分」を発見せよ。教師が教えるのではなく、自分で自分自身を発見し、自分に立ち向かい、自分で自分を高めていく能力を身につけさせた
4.少人数のグループ(小集団)の激論を通じて、情報や知恵を蓄積し、一人ではできなくても、グループでやり遂げられることを体得させた
5.社会の発展のため、若者に期待し、彼らを育てるという基本的な方針が村塾にはあった
 というのが主な吉田松陰先生の「人財づくり」に関する特徴である。改めて萩を訪れるにあたり、吉田松陰先生のことを学び、知って驚いたが、この松下村塾が実質的に松蔭の手によって開かれていたのは安政3年(1856年)9月から安政5年(1858年)12月に至るわずか2年4ヶ月の間であった。
しかも安政の大獄で刑死した松蔭は、その時、満29歳2ヶ月。この短い生涯の中に、身分を問わず、多くの若者が共感共鳴を受け、そして彼らに「志」の大切さを植えつけたのである。
新しい国づくりのために戦い、そして、明治政府をつくり、日本の産業近代化の中心的人物となった人間がこの松下村塾生であったことを和田塾通信の5月号でも書いた。過去の歴史を「タラ・レバ」で語ることはできないが「長崎にイギリス人商人、グラバーが来なかったら!」、日本の産業近代化は違った形になっていたかも知れない。
しかも、このグラバーが長州ファイブといわれた「伊藤博文や井上聞多(井上馨)らをイギリスに行くことをサポートしていなかったら!」、明治政府はスムーズに近代化することができていただろうか?そして、その原点が全て吉田松陰先生率いる松下村塾にあったことを考えると、歴史とは実に面白いものであると思う。その時代時代に世の中を動かし、築いていく人物が出るものである。先人から学ぶべきことは多い。

※吉田松陰先生の言葉の中で最も出てくる言葉の一つが『志』。2001年1月に和田が「今年の言葉」として『志』について記しているので、改めて参考にしていただきたい。

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