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和田塾通信2015/8

2015年8月 和田塾通信〔№64〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『人間にとって最も大事なことは、今ある与えられた『生(せい)』を懸命に生きることである』

人間の命は有限である。吉田松陰は「その命が長かろうと短かろうと人間の命(人生)には、四季がある」と説いた。そして「大事なことは、その瞬間を懸命に生きることだ!」とも言った。私も97歳の父から97年間生き抜いてきた強さ、そして生きる執念を感じる。その生き方にもまだ教えられている。

戦後70年―オールドエコノミーとニューエコノミーの分岐点は1980年代―

「奇跡の経済復興」と世界から称讃と驚異の目で見られた日本経済は、終戦後の1945年からの復興期と高度経済成長期の1970年代まで、そして1980年代前後を境に、産業構造も大きく変わるプロセスを経て、現在に至っている。
このことを大まかに定量的に捉えるためには、やはり産業別に働く就業人口の構成の変化推移をみるのが最もシンプルで理解しやすいだろう。
世界の先進国がイギリスにおける産業革命後から、いわゆる「近代化」が進んでくると、私見ではあるが、第一期は「農業社会的近代化」、第二期は「産業社会的近代化」、第三期は「消費社会的近代化」、第四期は「情報社会的近代化」という「近代化」のプロセスを経ているように思う。
現在、東南アジア、いわゆるASEAN諸国は、第二期から第三期に入ろうとしている。だが、携帯電話やパソコンの普及をみると、すでに第四期の「情報社会的近代化」も入り混じっている。これは、日本の経済成長期の頃とはいささか異なるものである。
この産業別就業人口の構成変化であるが、総務省の統計をみると、1950年~2010年までの60年間では次のようになっている。

この産業別就業者人口の推移から、戦後の1950年~1960年代は「農業社会的近代化」と定義できるように、50年代は日本人の大半が一次産業に就いていたし、60年代までは3分の1の人々が農業や漁業、林業で働いていた。その頃は農業人口だけでも1,000万人を超え、すなわち「自給自足型の社会」であり、今でいう「地産地消型の社会」であった。
まだ都市と地方の領域がハッキリしていたが、60年代半ば頃から、集団就職に代表されるように、第二次産業に人々が流れ始め、都市部に製造業が集中して、就業人口の3分の1の人達が製造業や建設業で働く時代になった。「産業社会的近代化」、すなわち工業化社会が産業の中心になり、大量生産時代を迎えつつあったのである。
この表からもわかるが、1970年代に突入すると、第一次産業は20%を切り、80年代に入ると10%になるという急激な産業構造シフトが行われていった。
今回のテーマである「オールドエコノミー」は、戦後から1970年代までの第一期「農業社会的近代化」、第二期「産業社会的近代化」までの時代をいい、1980年代半ば以降からを「ニューエコノミー時代」と考える。
1970年代以降、製造業は就業者全体の30%~20%代後半にあるが、そこには「機械化=オートメーション化」等による生産性の向上が根底にあり、働く人口が増加しなくても生産量を増やすことが出来た時代でもあった。
2000年以降、就業人口は30%を切り始めたわけだが、その原因の一つは前述した「生産性向上」と「日本の製造業の空洞化」といわれるように、中国や東南アジアへの進出による、いわゆる「工場移転」が進んできたことによるものと推測できる。
そして、この60年間で最も顕著に日本の産業構造が変わってきていることを象徴しているのは、1950年代には30%を切っていた第三次産業、すなわちサービス業に時代と共に就業人口がシフトしてきているということである。
1970年代までは全体の50%以内であったものが、80年代には55%を超え、2000年代には65%を超え、2010年には70%近くにまでサービス業人口が増加している。
すでに先進国、成熟国家といわれるような国々、すなわち米国やEU諸国では、第一次産業は5%を切り、第三次産業は70%を超え、米国やイギリスなどは80%を超えている。
農業が強いオランダでは、一次産業の就業者の割合は1.9%であるが、自給率は120%を超える。フランスは3.1%、ドイツは1.4%である。これなどはいかに農業の工業化が進んでいるかの表れであろう。
日本でも、これらの先進国と同様、国家の成長、成熟化で、一次産業から三次産業への人々のシフトが起こるという同様の形態を辿ってきているといえるし、「オールドエコノミー」から「ニューエコノミーへのシフト変化」ということでもある。
だが、戦後の経済復興と高度経済成長を牽引してきたのは、紛れもなく中小企業と国家政策を受けた重厚長大といわれた大企業群であろう。
前者は、全国に存在した「地場産業」であり、大企業の下請けとして存在した鉄工や部品などの製造業。後者は、「鉄は国家なり」に象徴される鉄鋼業であり、紡績などの繊維産業であり、1980年代に日本の産業の代表となった、家電を中心とした電機メーカーなどである。
 しかし、この電機メーカーも「ジャパン・アズ・ナンバーワン」になったのも束の間、「ニューエコノミー時代」に入った1990年以降は、韓国や中国、台湾などのメーカーに後塵を拝すという状況で今日に至っている。
これは日本のメーカーが新しい時代への対応、すなわち「ニューエコノミーの時代」への対応がうまくいかなかったことを意味していると考えられる。
オールドエコノミー時代から、ニューエコノミー時代にシフトしてきたインパクトとして考えられるのは、一つは戦後の復興の象徴として日本で開催された1964年の東京オリンピックであろう。
これは新幹線、高速道路、都内のホテル建設、カラーテレビの普及、国立競技場や代々木体育館などを建設するための技術力向上など、日本の経済力、技術力の他、日本人の優秀さを世界にアピールする最大のチャンスであった。そして、それから6年後の大阪万国博覧会は空前の約6,500万人を集客した。
この二つの世界的イベントは、日本が経済の質的変化、そして日本人の生活(ライフスタイル)の変化へのその後の大きなきっかけにもなった。
私自身も高校生から大学生、そして社会人になる最も感受性の高い年齢の時であったが、社会が大きく変わっていったことが未だ記憶に残っているくらいの大変化であった。
そして1970年代から1980年代に入っていく際も、日本には大きな試練があった。「オイルショック」というエネルギー不足である。それは50年代、60年代、70年代の高度経済成長、すなわち所得向上と物的所有による豊かさの実感、大量消費を覚え始めていた日本人には大きな衝撃を与えた。
この頃からニューエコノミーの代表産業の一つになる「スーパーマーケット」や「ファミリーレストラン」「ファストフード」が大衆消費の中心産業になり始めてきた。
また、ファッション化時代、レジャー化時代といわれ始め、徐々にではあるが「物」よりは「ソフト」「ブランド」「情報」「コト」「サービス」というような、物以外へのモノが経済的、経営的価値として認められるようになっていった。
1980年代初頭には、政府研究機関も「ソフト化経済の到来」とか「サービス経済の到来」といった言葉を使い始め、日本の経済活動、産業構造、就業人口の変化が明確になりつつあり、同時に、消費者の所得の向上もあって消費の仕方が大きく変わり始めたのである。
日本経済の質的変化に大きな影響を与えていたのは米国である。良きにつけ悪しきにつけ、戦後の日本は米国の間接的統治といわれ続けてきているが、テレビで見るアメリカンファミリーの豊かな生活は、常に日本人の憧れであった。
音楽、ファッション、食べ物、スポーツ、ライフスタイル全てが日本人に影響を与え、特に団塊世代と呼ばれ、終戦直後に生まれた若者への影響はとても大きなものであった。
私自身も昭和47年、1972年に初めて米国へ行き、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ、ニューヨークのエンパイアステートビル、ロスアンゼルスのビバリーヒルズや大型ショッピングセンター、どこにでも走っているハイウェイと、6車線に走る車の数、それらの全てに驚きと興奮を覚えた。
そして、その時、サンフランシスコの南にあるサンノゼという町がすでにシリコンバレーと呼ばれ、米国においてもカリフォルニアは新しいビジネスを生む使命を持ち、米国中から天才がこのシリコンバレーに集まり始めていたのを知った。
このシリコンバレーの誕生がそうだったように、日本のニューエコノミー時代への移行も、サービス産業の比重が大きくなっていることを示す。新しいビジネスを生む、物の価値よりモノ以外の価値への比重が高まるなどの特質があるが、それらは多くの米国からの影響によるものが大きい。
特に1980年代、レーガン大統領の登場以来、「強い米国」のスローガンの元に、米国経済自体がニューエコノミー経済を目指していったわけであるが、それは「コンピュータ産業の育成」であり、情報社会での覇権を獲る戦略でもあった。そして、もう一つは「金融資本主義制度の確立」で、米国主導による新しい金融システムづくりであった。新しい金融商品のグローバルスタンダード化によって、世界を席巻するというものである。
60年代、70年代の米国の製造業は日本やドイツなどにその覇権奪われていた。そこで出てきたのが新しいニューエコノミー経済による強い米国づくりであった。
そして80年代までのオールドエコノミーの行き詰まりと米国の新しい国家戦略であるニューエコノミー化への舵を切り始めたことによって、日本も米国を追随する形をとった。
1983年、当時大蔵省の審議官であった長富祐一郎氏は、1980年代に「ソフトノミックス」という考え方を提唱、当時、変貌する日本経済の質的変化を「ソフト化」として次の四つに分類をした。
1.情報化、知識集約化・・・科学技術、生活のソフト化
2.人々の意識の変化・・・文化的、精神的豊かさ
3.システムの変化・・・小規模、分散型の見直し
4.経済のソフト化…サービス化、軽薄短小化
同様に、官僚出身の堺屋太一さんは、80年代以降の日本経済の質的変化を「規格大量生産時代の終焉」とし、新しい時代として「知価社会の到来」を提唱した。この考えは「ソフト化」「サービス化」「ニューエコノミー」とほぼ同様の意味として私自身は捉えている。
オイルショックを乗り越えて、1980年に突入した日本だが、ニューエコノミー時代の到来を告げる事象として、次のようなことが挙げられる。
1.所得はさらに向上した
2.国内総生産(GDP)は10年間で10倍近い成長をした1970年  38兆円1975年  85兆円1980年  240兆円1985年  323兆円インフレ経済を経験しても日本の経済力がついてきていることがわかる
3.情報社会の到来を告げるコンピュータが大手企業から導入がスタートした
4.コンピュータと通信回線、それにメディアが融合し、ニューメディア時代として新しい産業を生み始めた
5.人材派遣やレンタルサービスなど、新しいニュービジネスが生まれ始めた
6.小売業がチェーン化を始め、その運営のための商品管理システムと販売管理システムを融合したPOSシステム(販売時点情報管理)が生まれ、小売業の大規模化が可能になった。
7.ファッション化時代になり、衣料品、インテリアなど、「機能+デザイン=商品」という価値観が一般的になって、おしゃれにお金を使う時代に入った
8.消費欲求は、より良いもの、人とは違うものをという価値欲求に入り、「人並み」から「人以上」、人とは違う「個性消費」の時代に入った
9.新しいビジネスとしてフランチャイズビジネスなどが生まれ始めた
 以上のような事業がニューエコノミー時代到来に拍車をかけた。
しかも1985年のプラザ合意による円対ドルの変動相場制により、米国は、とりわけ対日本との貿易赤字解消のために為替戦略を導入、円高ドル安に誘導する戦略に手を打ち、それが1980年代後半に発生した日本のバブル経済の元凶になった。と同時に、日本経済も情報社会に突入し、さらにニューエコノミーの進化がスタートした。
こうして1980年代に、戦後から続いた「物=物財」を中心とした経済=「オールドエコノミー」から、「物以外のモノ=サービス財」、ブランドや情報、そして「物+コト」という「ソフト化」「サービス化」が価値を生み出すという「ニューエコノミー時代」に突入したのである。

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