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和田塾通信2015/9

2015年9月 和田塾通信〔№64〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『明日に希望を持つことによって 今日を大切に生きる』

故・坂本九さんの歌に「明日がある」という歌がありました。とてもいい歌だったと、今でもそのメロディーが何となく心に残っています。「今日、駄目だったら明日がある」ということを後ろ向きと、とらえるのではなくて、今日という一日をしっかりとよく生きる、この繰り返しが人生を豊かにし、心豊かな素敵な人生を送れるのではないかと思います。そのためにも、明日、そしてその先に希望を持って、この“いま”を大切に過ごすことを心がけたいものです。

戦後70年―1980年代がニュー・エコノミー時代へのスタートで「情報」と「ネットワーク」が企業戦略のキーワードになった―

団塊世代生まれの私の世代は、戦後70年間に、今までにも書いてきたように、日本が貧しかった時を体験し、アメリカ文化が日本に持ち込まれ、そして、私たちの両親や先輩の方々が勤勉に働き、復興と経済成長を成し遂げてきたことを子供期、少年期、青年期、そして社会人に移り変わる時期まで現実の生活の中で経験してきた。
経済が成長していく過程において、経済だけでなく、政治の存在も大変重要であることは言うまでもない。終戦から10年後の復興から成長への「経済の明かり」が見え始めた1956年(昭和31年)、「もはや戦後ではない!」という言葉が国会でも言われた。
経済成長の基本は、まず生活者にとって「社会的基盤=インフラストラクチャー(=infrastructure)」が整備されていくことである。
これは国民の稼いだ収入を税という形で国に納め、その税収によって大半が公共投資として使われる。道路、鉄道、港湾、ダムなどの産業基盤の社会資本及び学校、病院、公園、社会福祉施設等の生活関連の社会資本などだ。
その投資型経済活動は、政治によって決められる。現在、東南アジアのミャンマーやカンボジアなどは、この社会基盤づくりの段階である。前回でも書いたが、1945年から1980年までの35年間で日本にとっての社会的基盤(インフラ)づくりは大半が出来上がったといえる。
特に三公社といわれた日本国有鉄道(国鉄)、日本専売公社(タバコ、塩などを扱う)、日本電信電話公社は、社会基盤の大きな役割を担ってきた。
 この三公社の事業そのものは明治政府の発足以来、近代化事業の一貫で政府直轄の事業として営まれてきた。
戦前は、この三公社を統治する省庁があった。国鉄は1949年に日本国有鉄道として設立されたが巨額の赤字を抱えながら、1987年に地域分割によって民営化された。
日本専売公社は、タバコ、塩等を生産販売する事業を1949年に大蔵省の専売局から分離独立させて発足した特殊法人であったが、1985年に日本たばこ産業株式会社(JT)として民営化された。
日本電信電話公社は、1952年(昭和27年)に設立され、1985年に民営化された。特にこの情報・通信分野には1987年に京セラの稲盛氏、ウシオ電機の牛尾氏、セコムの飯田氏など、戦後の創業オーナー経営者達が規制緩和と民営化という旗揚げと共に第2電電(現在のKDDI)を設立したことによって、その後の情報分野に大きな変革をもたらした。
こうしてみても1980年代は、規制緩和と民営化によって経済構造が大きく変わっていった分岐点の10年間であったことが分かる。
戦後(1945年)から1980年までの35年間は、オールドエコノミー時代と呼ばれ、「大企業」と、その下請け、孫請けといった産業構造、そして中小企業による「地場産業」、政府主導による前述したような「公共企業体」によって高度経済成長が創られてきたのである。つまり、重厚長大産業が経済成長の基盤にあり、これらの発展が大量生産、大量消費を生み、そして大量雇用を受け入れた。
そして1次産業を中心に戦後再スタートした日本は「製造業を強くし、輸出国家として国づくりをしなければ世界の先進国になれない」という「国民のコンセンス」が1945年から30年以上にわたってあり、それが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と海外の学者からも評価されるようになって1980年代を迎えたのである。
P・Fドラッカーは、「経済の発展は需要創造にある」と言われたが、全てのモノを失った日本では、戦後の近代化復興期から発展期までは国家政策も「所得を増やし消費を増やす」というものであった。
1945年から1960年位の15年間はまさに働き、収入を増やし、少しでも豊かな生活をしたいという欲望が渦巻いていた。そして心理学者のマズローの「欲求の5段階説」の第1段階の生理的欲求=「食べるために働く」から、第2段階の「人並みの生活をしたい」へ、そして第3段階の「より豊かな生活をしたい」という段階へ移行した。
電機メーカーはテレビを作り、冷蔵庫や掃除機を作った。「一家に一台を売る、普及させる」ことに全力を上げ、自動車業界も大衆が買えるような車づくりをしていった。このような大量生産、大量販売時代が戦後からの35年間であった。
こうした時代変化の中で、時代は「工業化時代、工業化社会」から「情報化時代、情報化社会」に移ろうとしていた。いわゆる「ポスト工業社会」である。
そして1980年、一冊の本が売り出された。米国の未来学者のアルビン・トフラーの「第三の波」だ。この本は世界に衝撃を与え、日本でもベストセラーになった。トフラーは「これまで人類は二度の大変革の波を経験してきており、第一の波は農業革命、第二の波は産業革命と呼ばれるものであった。これから第三の波として情報革命による脱産業社会が押し寄せる」と唱えたのである。
トフラーは、この書の中で次のように変わる「社会像」をとらえている。「自然環境に恵まれた郊外に建つ家庭の中にある小型のコンピュータが高速の電話回線で結ばれれば、それがエレクトロニクス・コテージ(電子小屋)になる。そうなれば、もうわざわざ車に乗って会社のあるダウンタウンまで出かける必要はなく、家にいて会社と通信して仕事をこなすことができる」
これは34年前にトフラーが唱えた社会像であるが、今、インターネットによって、このことが現実化している。
1970年代、既に米国ではIBMを中心に大型コンピュータが実務的に使われ始め、経済活動において大型のデータ(情報)は重要な価値を生み出すものであるという概念が言われ始めていたのである。この考え方の基本が情報社会の出発点でもあった。
また、米国ではこの頃にアップルの創業者であるスティーブ・ジョブズやマイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツなどが「アンチ・IBM」の立場からパーソナルコンピュータ分野の研究、そしてビジネス化に入っており、ビル・ゲイツは1975年に、ジョブズは1976年にそれぞれ創業している。
このような出来事やトレンドにおける技術開発の進歩や人々の生活のスタイルの中からトフラーは「情報」がこれからの社会や経済活動を大きく変えていくだろうと予想したのである。
前回、『「サービス化の時代」「ソフト化の時代」そして「情報化の時代」が1980年代以降に経済や経営の中心的な基軸になるだろう』
と書いた。1980年に入った頃、私はまだ33歳。その頃、在籍していた船井総合研究所の主要なお客さんは大小の小売業であった。
当時の小売業界の経営戦略の中心は「チェーン化」であり「生産性向上」であった。そして大型小売業であれば、食品、衣料品、家庭用品など品揃えの幅を広げていくラインロビング戦略も重要だった。
100万点以上の商品を扱い、その中から売れる商品、売れない商品の仕訳をしていかなければ商品の回転率は上がらない、結果として、売上げも上がらない。
経済の成長、生活の豊かさの指標の一つは様々な商品が開発され、比較購買できることでもある。1980年代はあらゆる分野の様々な商品が開発された時代でもある。そして、メーカーで開発され、小売の店頭に並び、最終的に消費者が買う。そのプロセスにおいて、小売業からすれば、「仕入れ管理」「発注管理」「在庫管理」「売れ筋管理」など経営の実態をつかみ、生産性を向上するための「管理」というものが大事になった。
これが「販売時点商品情報管理」、すなわち「POS」と呼ばれる大量の商品を扱う小売業のために開発された「商品情報管理システム」である。一言でいえば「いつ、どの店で、どんな商品が、どれだけ売れたか?」という情報データ。これによって効率の良い受発注をして、生産性を上げていこうというものだ。
今日、小売業の王者になった「セブン-イレブン」は既にこの頃、小売業の一員として存在していたが、30数年前に現在のような立場になるとは、ほとんど人が想像だにしていなかった。
しかし、セブン-イレブンはこの30数年間、「お客様の志向の変化を見抜くこと」「商品開発・サービス開発」にこだわり続けてきた。
そしてそれを手抜きなくやるために商品情報の精度を上げ、本部と店と仕入れ先と情報の共有化をすることを徹底強化してきた。その根本思想は現在も営々と続いている。セブン-イレブンが「情報武装型小売企業」と言われている所以である。
セブン-イレブンは、80年代から現在までの約30年間において、店舗数は国内で1万6,000店を超え、セブン銀行の設立、公共料金の支払いやチケットの購入など、着々とサービス商品の扱いを広げ、社会的インフラ産業としての基盤を構築しつつある。
これも「情報」と「ネットワーク」によって商品の売れ筋がリアルタイムに把握できる仕組みを築いてきたからである。
1980年代から私が関わった会社に丸井がある。創業は月賦小売店だ。1970年代の後半、月賦百貨店は、丸井と緑屋が双璧をなしていたが、緑屋は、西武百貨店グループに買収され、その後、紆余曲折があったものの、現在は、カード会社、クレディセゾンとしてJCBなどと匹敵する会社になっている。
一方、丸井は、ハウスカードとして「ヤング」「ファッション」をマーケティング戦略に置き、首都圏の駅前に出店していった。しかし、根本の戦略はクレジット=金融を武器とした「顧客情報」を構築したことである。
若者の分割支払いを可能とし、欲しい商品を品揃えし、お客様の財布=支払い可能な情報を武器に独自の経営戦略を確立した。「いつ、だれが、何を買い、支払い情報」を把握できる「情報システム」の構築をしたのである。
そして1970年代にはヤマト運輸が「宅急便」を開発した。1980年代にそれは社会の必要商品として普及していった。それも「個別配送システム」という1個1個の荷物を廉価な価格でどこにでも早くお届けする仕組みを完成させたからである。
現在はインターネットの時代、eコマースの時代になり、1個1個の商品を届けるというサービスは、当たり前になったが、その根本には、80年代に「コンピュータ」と「通信」とがネットワークを創り、それを運営するソフトウェアの開発が技術革新によって実用化できたからである。
多くの企業が「情報」というものが企業戦略にとって大きな価値を生み、武器になることを認識し、挑戦し続けたから今日がある。
こうして1980年代には、コンピュータが製造業であろうと、小売業であろうと、サービス業であろうと「情報」というものが企業戦略、あるいは今でいう「新しいビジネスモデル」を創造したり、イノベーションしたりするのには欠かせないものになってきた。
当然、先進的な企業戦略のキーワードは「情報」と「ネットワーク」であったことを再認識したい。このような時流変化の中で80年代後半に世界的に「ダウンサイジング=downsizing」が起こった。
コンピュータの小型化が半導体開発などによって可能になり、同時に、マイクロソフトを中心としたパーソナルコンピュータやそのソフト開発が続出したのである。
コンピュータ業界最大の巨人、IBMは大型汎用機を主力商品としていたので、大きな打撃を受けた。株価は87年の最高値の175ドルから93年には40ドルまで下がった。
この難局を乗り越えるために、最高経営責任者を外部から、ナビスコなどを再建したルイス・ガースナー氏を招聘。彼は自ら現場主義、顧客第一主義を実践した。
また大がかりなリストラも実践した。そのガースナーの再建コンセプトは「IBMはサービス(IBM means service)業である」というものであった。つまり「IBMは、ハードからサービス業としてやっていくのだ」という考えを示したのである。
ここに、80年代の時代の変化のキーワードがある。まさに「オールドエコノミー」から「ニューエコノミー」へのチェンジであった。
また、80年代は、「ニュービジネス時代の到来」とも言われている。30歳半ばの私の周辺に20代、30代そこそこで、起業する同世代の人たちが現れ始めた。
創業、起業をするには、自らが技術をもって製品開発できる、それなりの投資できる資金を持っていないと、当時は、なかなかスタートアップできなかった。
まだベンチャーキャピタルやエンジェルといわれる投資家もファイナンスも未成熟であった。しかし、時代は新しい方向に向かっていた。一言でいえば、サービス化の時代であり、そこに新しい時代が生まれつつあった。
この80年代のニュービジネスと90年代のバブル経済崩壊後のインターネット時代の到来については次回に書きたい。

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