wada managment

和田塾通信2016/3

2016年3月 和田塾通信〔№71〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『「時の流れは人を待たない』

※中国、宗代の儒学者(朱子学)のしゅき朱熹の考えを言葉(句)にしたものその意味するところは「今日勉強しなくても明日があるからといって、怠けてはいけない。今年学問しなくても来年があるからといって、空しく月日を過ごしてはならない。一日一年をおろそかにせず、常に勉強しなければならない。若い時を無駄に過ごすと、結局、年老いた後に嘆くことになる」。

今再びニュービジネスに取り組み時代がやってきた―80年代に量販店が取り組んだ多角化(ニュービジネス)-

前号は、戦後最大のニュービジネスとして誕生し、一つの産業にまでなった量販店=チェーンストアについて書いた。しかし、残念なことに、その量販店を創りあげた当時の若き商人起業家は既に鬼籍に入られた方も多い。そして何より彼らの創り上げた量販店が消え去ろうとしていることに、時代の変化とその酷さを感じざるを得ない。
これまでにも多くの会社が1990年代にM&Aしたり、されたりして、あるいは倒産をするという状況になった。「量販店という業態」を創り、チェーン展開し始めてから、上場はするものの、脆弱な財務体質と少ない利益率、自転車操業的な出店、人材力の乏しさ等々が根本にあり、強い企業力をつくりあげることができなかった。
さらに、一つの成功体験にしばられて、大改革ができないまま、お客さんから「不必要」という烙印を押されてしまったのである。
急成長する量販店企業群には、1970年代頃からすでに先行産業として成長していた紡績業などに、東大などを出て働いていた人たちが転職して、急速に成長する会社の人材の補充をしていた。しかし、野武士と言われた創業者である量販店社長のワンマン体質や猛烈な働きぶりに若きブルジョワサラリーマンはなかなかついていけなかったのが実状であった。
前号でも書いたが、1980年代になると、各社は強烈な出店競争に入り、業界では「万年オーバーストアー現象」と言われるようになっていた。オーバーストアーになると、当然、価格競争に入る。そして、戦略的に優位な立地、駐車場の確保、強いマーチャンダイジング能力の差が必然的に企業の優劣を決めるようになる。
出店競争のために、過大な借金による出店を余儀なくされ、そうした状況下でバブル経済とその崩壊に量販店も巻き込まれるという流れが今日まで続いている。
その1980年代、オーバーストアーになり始めた頃、販店企業群は「多角化」をもう一つの戦略としてとり始めた。次の表で説明するとわかりやすい。
市場事業 既存事業 新市場
既存事業 1.地域制圧戦略 2.他地域開拓戦略
新事業 3.新事業開発戦略(関連事業) 4.多角化戦略
1.の地域制圧戦略は、ある一定商圏の中で多店舗展開し、その商圏内の中で総需要(消費)に対して、高いシェアをとるというもので、そのためには、チェーン化、すなわち多店舗化が必要となる。
この時に大事な戦略はそれぞれの店舗が「一番店になる」ということだ。弱い店ばかりチェーン化しても、競争の優位性はないし、利益や投資回収(ROI)という視点からも何しろ一番店、すなわち「最も集客力のある店」でなければならない。
30~40年前に、ダイエーやニチイ(後のマイカルで地域連合の合併をした)は全国展開して大きくなった。それらの中で今も残っているのはジャスコ=イオンだけであり、イトーヨーカ堂は実質的に関東以北が出店エリアである。
そして現在も健闘し、地域に根ざしている量販店が滋賀県で圧倒的なシェアを誇る「平和堂」で、その年間売上げは約3,300億円。また、広島に本拠をおき、ゆめタウンというショッピングモールやスーパーマーケットを展開する「イズミ」の売上げは約5,000億円。そして愛媛の松山に本拠をおく「フジ」は約3,100億円を売上げている。
この3社は全国展開する量販店と対抗し、勝ち残ってきた会社である。このマトリックスで分析すると「平和堂」は、滋賀県だけでも71店舗展開し「琵琶湖ネックレスチェーン構想」を掲げ、全県にショッピングセンター、大型店、小型スーパーを出店、さらに北陸や関西にも進出し、2.の他地域開拓戦略や3.の新事業(業態)開発戦略をはかり、シェアを高めている。
また、4.の多角化戦略としてはTSUTAYAやケンタッキーフライドチキンとフランチャイズ契約をして展開している。
特に滋賀県は「中国・湖南省と姉妹都市」という関係から、いち早く中国に進出し、それなりの評価を得ていたが、数年前の抗日デモで、大きな被害をうけ、現在は3店舗のみという状況のようだ。
「イズミ」と「フジ」の共通店は、西日本に存在していることであるが、両社ともに創業者が地方の衣料品問屋から事業をスタートさせ、同時に1970〜80年代に、それぞれの地域で小売業を大きくしてきたということもある。
約100店舗を展開する「イズミ」の売上げの割合は中国地方で約50%、九州地方で43%となっているが、本社のある広島では圧倒的なシェアを誇る。
一方、「フジ」は、もともとは広島に本社を置く衣料問屋「十和(とうわ)」(現在はアスティ)を小売業進出のために愛媛に出店をさせていった。1967年(昭和42年)のことである。
その理由は、広島や山口を中心に2000店の衣料品の取引先があり、中国地方で小売展開をすることは、取引先に不安と不信を与えるということからであった。
四国4県だけでも、約70店舗を展開し、広島、山口、岡山に展開しているこの2社は、共に「永遠のライバル」を自認しているようである。
そして、昭和30~50年代にかけて全国には問屋機能としての「地方衣料問屋」なるものが存在していた。全国の産地から仕入れ、地元の小売店に卸すというビジネスである。
当時は、それぞれの地方において、それなりの「企業の格」を持ち、資産を有していた。戦前戦後を通して「繊維は大きな需要があり、地域で存在感があった」のである。
しかし、時代の変化で現在、地方の問屋は、ほとんどその役割を終えている。特にバブル経済が崩壊した1990年以降に一挙に縮小、もしくは消滅した。
こういう変化の中で、この「イズミ」と「フジ」という会社は、いわば特異な存在である。ある面で「したたか」であり「戦略的企業」である。しかも小売企業としても地域に根ざして圧倒的なシェア=支持率をとっている。
 さて、日本の小売業、特に量販店企業の経営者に最も影響を与えたのは米国のGMS(General Merchandising Store)であった。中でも小売業の王者といわれた「シアーズ・ローバック」は企業戦略、多角化戦略においても、そのモデル企業となった。
 シアーズの創業は1886年である。飛行機も自動車も鉄道すらない時代に、時計、宝石の販売からスタートし、1896年にはカタログ販売をスタートさせた。当時の米国は東部から西部へと少しずつヨーロッパからの移民が移動しており、そういう人たちが顧客であった。
 私が1970年代に初めて米国に行った時、シアーズの電話帳のような分厚いカタログを手にとって、その厚さと品数の多さに驚いたことを覚えている。
特に1940〜1970年代に全米に店舗を展開させたシアーズは「米国中産階級の70%の人たちがシアーズで商品を買う」とまで言われたのである。
現在、セブン&アイグループが店舗とEC(ネット販売)を融合させて「オムニチャネル戦略」を展開しているが、あの時代にシアーズでは、すでにカタログ販売と店舗販売の「ダブルチャネル」で全米でのシェアを高めていた。
現在、日本のコンビ二は、プライベーブランド(PB商品)を展開して、定着しつつあるが、1960、70年代頃の米国でシアーズの「ケンモア」ブランドはPB商品の代名詞のような存在であった。冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの電化製品は特に強かった。
だが、1986年に100周年を迎えた頃、シカゴに世界一(当時として)高いシアーズタワーを建てたりした頃から経営がおかしくなっていった。
それでも、シアーズの多角化が日本の企業、特にダイエーや西友などに大きな影響を与えたことは間違いない。
1931年、全米で約400店舗を展開しながら、自動車保険を中心としたオールステート保険を設立、1980年代には、当時、米国最大の不動産会社、コールドウェル・バンカーを買収し、不動産業界に進出。証券大手のディーン・ウィッター・レイノルズも買収した。
そして同じく1980年代に「ディスカバーカード」のブランドでクレジット業務に進出したのだが、この貸し倒れが増加(1996年末の未収勘定は267億ドル)、それに伴う償却負担と本業の売り上げ不振によって業績が悪化。1993年に証券会社を売却、1995年にはオールステート保険も売却、そして創業以来のカタログ通信販売からも撤退。1980年代から1990年代にかけてのシアーズは多角化事業の後処理をする時代となった。
しかも後発企業であるウォルマートの成長によって、シアーズの存在は薄れていくばかり。ディスカウントストアーのKマートグループに入り、徐々にシアーズのブランドを使ってKマートも再成長させようとしているのが直近の動きである。
小売業は大衆を相手に商売をする「物販業」である。会社が大きくなると、年間、数千万人の来店がある。それに伴い、経営者はこのお客様に「物以外のモノ」を売ろうと考える。それが多角化戦略の始まりである。
ダイエーも西友も小売以外の金融業や不動産業に進出した。特に時代はバブル時代であった。取引銀行もその後押しをした。
しかし、あっという間に時代の流れは変わり、その巨大な債務が大きな負担になり、結局は破綻に追い込まれた。
ダイエーのクレジットカード「OMCカード」は現在、小売部門を吸収したイオングループのイオンカードに吸収されるのではないかと言われている。
西友が月賦店の緑屋を買収し、西友、西武百貨店グループのセゾンカードの基礎となった。現在、その会社「クレディセゾン」はJCBカードなどと並ぶクレジットカード会社として、その存在は大きくなっている。
1070〜1980年代の大手量販店は多角化戦略をとり、ホテル事業、リゾート事業、旅行事業や金融事業へとその間口を広げていった。マイカル(旧ニチイ)は米映画会社のワーナー・ブラザーズと手を組み、日本にシネマコンプレックス「ワーナーマイカル」を展開した。
そうした中でも手堅さで知られるイトーヨーカ堂は「不得意なビジネスには手を出さない」という創業者の考えが遵守された。コンビニのセブン‐イレブンは小売業という本業路線であるということで力を入れてきた。そして現在のセブン‐イレブンをつくりあげた。
その成長の中で「セブン銀行」は紆余曲折があったにせよ、2001年の設立からまだ15年足らずであるが、セブン‐イレブンの店舗を中心にATMを20,000台以上、純利益も200億円以上出すまでになった。決済専門銀行として独自のビジネスモデルを完成させたといえる。
大手量販店にとって、小売以外の多角化事業はシアーズ・ローバックにしても難しかった。日本でも同様である。その理由の一つは「人財がいない」こと、二つめは本業と相乗効果があると思っても、その事業そのものは、一度船出をすれば、それを本業としている企業との戦いに入るということである。その時に優位性にたつ商品やサービスを提供できないままでは黒字化できない。
セブン銀行もコンビニの一つのサービス商品となるまでのプロセスにおいて、相当の忍耐と信念が貫かれたものと思うが、今となれば、コンビニ店舗との相性がよかったのではないかと思われる。だが、それもお客様が違和感なく使えるようにするための莫大なシステム投資があったからこそだとも考えられる。
最後に、私が長年関わった会社に丸井という会社がある。首都圏を中心とした月賦型百貨店として成長したが、二代目社長の青井忠雄氏が今から40年前に「月賦からクレジットへ」というフレーズで「脱・月賦店」をはかり「ヤング」「ファッション」「ご予算少々」というキーワードで新しい小売業態を創りあげ、高収益小売業としての存在感を示した。
青井忠雄氏が若かりし頃、スーパーが成長していくのを見て「自分も食品を持って大きくなろう」と考え、参入したのだが、「見事、失敗した!」という話を伺ったことがある。
その失敗を糧に、月賦商法にコンピュータシステムを導入し、クレジットカードを発行、独自の「金融小売業」を創りあげた。特にカードによる「顧客管理」をいち早くシステムとして完成させたのが丸井であった。
そのカードを利用して「貸金業」、つまり「小口金融」に参入、これが1980〜1990年代の丸井の高収益を支えた。
この丸井の金融事業は、もともと月賦そのものが金融業であるのだから、丸井にとっては多角化とは違うと思う。だが、1980年代後半に、このカード会社を別会社化して、そのシステムを地方の百貨店やスーパーなどに「システムパッケージとして使用させる事業」を展開したが、2000年過ぎには、この事業から撤退した。
 このように代表的な小売業の多角化戦略(ニュービジネス)を簡単にではあるが、私が関わった時を含めて振り返ってみると「単なる多角化は難しい」というのが結論である。
 自らの本業を生かすためのイノベーション(革新)による周辺事業からの多角化(大手量販店にとってのコンビニのように、小売であるが違う業態)は、まだ成功の確率は高い。
新しい事業への挑戦のためには
・財務的な裏付けが必要(自己資本の何%までをワクとするか?)
・投資の上限を決めておき、それ以上の回収のメドがたたない時はやめる
・人財が大事で、社内にいない場合は、外部から連れてくる(それでもなかなかうまくいないのが現実)
・常に冷静な客観性が大事(オーナー経営者は歯止めがきかなくなるもの)
が大事である。
 イトーヨーカ堂の創業者、伊藤雅俊氏の経営哲学であるが「多角化事業は難しい。人間にはそんなにたくさんの能力を与えられていない」という自らの戒とされた言葉が忘れられない。

株式会社和田マネイジメント TEL 03-3457-6551

PAGETOP
Copyright © 和田マネイジメント All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.