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和田塾通信2016/4

2016年4月 和田塾通信〔№72〕

今月気に入った言葉、気になった言葉

『売るということは、会社経営の基本であり、売れなければ資金繰りに苦しみ、最悪は倒産に追い込まれる』 

会社経営の活動は一言でいえば、「売る」ということを根本としている。売れる商品をつくり、売れる工夫をし、気持ちを込め、執念と信念をもって売らなければ、お客様に響かない。一つの商品を一人のお客様に売ることが大事なのであり、それが原点である。

既に1980年代に始まっていた「‘今’を創っている」「情報化」「サービス化・ソフト化」「ファッション化」の到来

前号までに、高度成長期に、日本の一大産業になった量販店〔チェーンストア、GMS(ゼネラル・マーチャンダイジングストア)とも呼ばれていた〕のことを書いた。その量販店も誕生から約50年で、その役割を終えようとしている。
量販店が最大の小売企業となった1980年代、今日のような状況になると、誰が想像しただろうか?80年代、ダイエーやイトーヨーカ堂、ジャスコ(現在のイオン)、ニチイ(後のマイカル、そして現在は消滅)は、量販店の雄として出店エリアの拡大競争をしていた。同時に部門単位で日本一を競っていた。
特にダイエーは出店数も多く、また一つの店舗も大型化していたことから、家電や家具、薬、食品などで日本一の売上げを達成して、それぞれの部門を今で言う、カンパニー制のような組織にして出店攻勢をかけていた。
イトーヨーカ堂はその生い立ちから「衣料のヨーカ堂」と言われたほど、衣料品の売上げは最も収益を出していた。それが1990年からのバブル経済崩壊、そして、デフレ経済下で、これらの量販店は急激に弱体化する。
同時に「カテゴリーキラー」と呼ばれた専門店が「大型化」「ローコスト経営による価格訴求」によって、急展開し始めた。その代表は、紳士服の青山、電器のヤマダ、衣料のしまむらやユニクロ、家具のニトリ、靴のABCマート、薬のマツモトキヨシ等々である。
これらのほとんどは株式上場も果たし、今も成長し続けているし、特にユニクロは海外展開
に次なる成長市場を求めて攻勢をかけている。
70年代から80年代にかけて始まっていた、それぞれの産業構造を変えるような変革をもたらしたのが「情報化」「サービス化・ソフト化」「ファッション化」というキーワードである。米国ではもともと1950年代に起こっており、米国の産業構造を大きく変えた。
 そして、その波は20年後に日本にも押し寄せ、70年の大阪万国博覧会をきっかけに80年代にその根は既に深く根づいていたのである。この三つのキーワードは、今、私たちの生活の中にごく当たり前のように根づいているし、企業戦略にとっても産業の中枢になった。
そして、単なる「物(モノ)」だけでは、満足しない「消費者」が生まれていたのである。さらに80年代には「消費者」という従来のとらえ方では難しい時代が来ていた。価値観や行動様式が多様化し、作る側、売る側だけの、つまり「メーカーサイドのマーケティング発想では売れない」という兆候が出始めていたのである。
大量に画一的な商品が作られ、ある程度、物が充足され始めると、人間は「自分だけの好み」、つまり「個性」というもので物(モノ)を選択し、購入するという心理と行動形態を持つようになる。
既に当時の先進国である欧米は、そういう時代に入っていた。したがって「マーケティングの仕組み」に「売る側、作る側の論理が通用しなくなってきた」のも、この70年代から80年代にかけてである。「小売型マーケティング」「生活者型マーケティングの発想」で物(商品)をつくり、売る立場の人もそれを身につけていかないと「売れない時代」が来ていたのである。
消費者は「生活者」になり、「みんなが持っているから私も持つという画一的な商品選択」から「私だけの好みの商品」、つまり「個性化」「多様化」の時代に入っていった。作り手、売り手も、よりレベルの高いマーケティング活動が求められる時代に入っていったのである。
そうした中、70年代から80年代にかけて、ファッションの世界で、まさに革命的な企業が現れた。当時の若者(10代後半から20代)の「着るという概念」の革命が起こったのである。「ファッション」ということが言われ始めて以来、日本人は着ることを「ファッション」、“おしゃれな感性と自己表現する”ためのものとするようになった。
それをプレゼンテーションしたのがファッション界のカリスマとして後世にその名を刻んだ「VANの創業者、石津謙介氏」である。
VANは、着るもので自己主張すること、つまり“カッコ良さ”や“自分というものを表現する”ことを知らなかった日本人に、米国のアイビーリーグ(東海岸の名門大学の学生が着ていたアイビーファッション)の模倣ではあったかもしれないが、それを提供し、今、ユニクロが展開しているような「企画・製造・販売」を全て自社でするというビジネスモデルをこの当時に、既に完成させた会社である。
 このVANの登場、石津謙介という存在は、その後、アパレル業界に携わる人々に影響を与えた。VANは売上げ500億円の規模になりながら、その後、破綻するわけであるが、いわゆる石津学校から、多くのファッションリーダーが生まれ、彼らの多くが、その後、アパレルやインテリアなど、あるいは横文字ビジネスと呼ばれた「デザイナー、スタイリスト、コピーライター、イラストレーター、インテリアコーディネーター等々」を一つの職業として、ビジネスとして確立していったのである。
 また、石津氏の「VAN」と並び「JUN」や「ROPE」という商品ブランドであり、専門店が、全国で多店舗化し、地方にファッションという新しい風を運んでいった。
 いずれにしても、一生懸命働き「働きバチ」と諸外国から揶揄されながらも日本人は経済的に豊かになり、マズローの提唱する「人並みの欲求」から「自己実現への欲求」の段階にいき、その消費行動の中で「自分の個性(好み)でモノを買いたい、もっと良質なモノを買いたい」というレベルになったのである。
 「VAN」や「JUN」「ROPE」のようなファッションブランドのルーツがどこにあったというと、やはり米国やヨーロッパである。特に日本人はファッションの源流をフランスやイタリアに求めた。そして業界の多くの経営者やデザイナー志向の若者がこれらの国々で学び、そのエッセンスを日本に持ち帰ってきたし、また、これらの国々の著名なブランドの販売ライセンスやデザインライセンスを日本で展開し始めた。
 その受け皿となったのが都市型百貨店であり、百貨店を主要取引先とした大手アパレルメーカーであった。この1970年代、80年代前半の潮流は、まさしく日本の「ファッション化時代の黎明期」であり、それが進化、発展しながら現在に続いている。
 そして同時に1970年代から1980年代にかけて「情報化時代が到来している」と、当時の社会学者や経済学者は唱え始めていた。既に米国では、1950年代半ばから「情報化社会(脱・ポスト工業化社会)が来るぞ」と、一部の先進的な学者は言い始めていたのである。
「社会予報家(ソーシャル・フォアキャスター)」であったジョン・ネイスビッツは、1983年に大ヒットした著書『メガ・トレンド』で次のように書いている。
「情報化社会は1956年から1957年(日本では昭和32年頃、白黒テレビが出始めた頃)にかけて始まった。それはアメリカが工業力を形成した10年間のうちの2年間にあたる。 1956年はアメリカにとって繁栄と豊穣、そして工業成長の年であった。アイゼンハワーが大統領に再選された年であり、第2次大戦の荒廃から回復しつつあった日本が国連加盟を認められた年でもあった。 大陸間電信回線サービスが開始され、ウイリアム・H・ホワイトが工業国アメリカの経営管理に関する典型的著述である『組織の中の人間』を出版した。表面的にはアメリカは繁栄した工業経済社会のように見えていたが、注目すべき象徴的なできごとが、一つの時代の終わりを予告していた。 1956年、アメリカは史上はじめて技術や管理、事務に携わるホワイト・カラーが数の上でブルー・カラーをしのいだ。工業国アメリカは、はじめて人々の大半が工業よりは情報のもとで働く新しい社会に道を譲りつつある国になった。翌1957年、情報革命は全世界に波及した。ソ連はスプートニクを打ち上げた。スプートニクが本当の意味で重要だったのは、宇宙時代の幕開けを告げたからではなく、世界的な衛星通信時代をもたらしたからである。 同様に我々は、1981年のスペースシャトル、コロンビアの打ち上げ成功とその見事な回収についても誤解していた。それは来たるべき宇宙探査の時代よりも情報化社会にとってはるかに重要な意義を持つものであった」
 このように、ジョン・ネイビッツはアメリカにおける情報化社会の到来を1980年早々に指摘している。
この情報社会の到来において宇宙衛星開発の技術の中枢にあったコンピュータ産業の巨人であるIBMなどの存在を忘れてはならないし、軍需産業の巨大化に伴う通信やそれを動かすシステムなどにおいても「新しい職業や技術」が生まれてきているのである。これが現在のインターネット回線などの元になっている。
 1960年代、ハーバード大学の社会学者、ダニエル・ベルはこの新時代を「脱工業化社会(ポスト・インダストリアル・ソサエティー)」と名づけ、その後、この産業革命ともいうべき、大革命は当たり前のように受け入れられていった。
 また、ダニエル・ベルは「工業化社会における戦略的資産は資本である。しかし、新しい社会(すなわち情報化社会)は情報こそが戦略的な資産であって、唯一の資産というわけではないが、最も重要な資産である」と指摘していた。
 そして、まさに「資本」ではなく「頭脳(知恵)」が企業をおこす時代が来ていた。当時の代表的な創業企業として「インテル」を例にあげている。日本でも、インテルのテレビCM「インテル入っている」は現在でも有名なコピーだ。1968年にロバート・ノイスやゴードン・ムーアによって創業されたインテルは250万ドルのベンチャー・キャピタルとしてスタートした。しかし、その企業を1980年代までに年間売上高8億5,000万ドルにまで導いた技術的躍進は、金融資産の背後にあったブレーン・パワー(頭脳)によってもたらされたものである。
 インテルは、マイクロ・プロセッサーを開発したことによって、より信用を獲得した。当時、ロバート・ノイエは次のように語っている。「鉄鋼や自動車のようなものと違って、この産業にはこれまで寡占ということはなかった。それは資本集約型というよりは常に頭脳集約型であった」と。
 そしてそれから40年後の現在、世界の名だたる情報企業となったのが、ウインドウズを開発したビル・ゲイツのマイクロソフト、パソコンのマッキントッシュ、その後にiPhoneなどを開発するスティーブ・ジョブズのアップルなどであるが、いずれも創業は1970年代である。
 そして、米国の新しい産業となるシリコンバレーを中心としたハイテク産業、すなわち情報産業が花開いていくのである。
インテルも創業以来、40年以上にわたり、マイクロ・プロセッサー、チップセット、フラッシュメモリーなどを製造販売しているが、特にパーソナルコンピュータ用CPUでは、世界の80%のシェアをとり、半導体メーカーとして世界第1位の地位を維持している。
 「米国において新しい時代が始まっていた」と書いたが、現在も言われている通り、「ベンチャー企業」の登場が、社会を、産業を変えていくことになる。
1950年代、企業の誕生は年間9万3,000件くらいであったが、1970年代後半になると、年間60万件ほどの企業が生まれるようになった。ベンチャー企業の登場は、特に現在の米国を支える企業群に成長したIT企業の種まきの時期でもあった。そして、ベンチャー・キャピタルという新しい金融支援事業を生み、株式上場という新しい金融収入によって、果実を得るという「金融資本主義大国米国」を生むきっかけにもなったのである。
 また、新企業をつくり出した企業家は同時に他の人のためにも仕事をつくり出した。1976年までの7年間に、おびただしい数の新しい労働者、特にコンピュータ関連などの「知的頭脳」を必要とする職業が生まれたが、約600万人もの人たちが、大企業(フォーチュン誌にのるような)では働かず、創業4年以下のスモールカンパニー(小企業、ベンチャー企業)に入り、仕事をしたことも大きな特徴であり、情報化社会の到来を告げるものであった。
 ジョン・ネイスビッツはこの1970年代後半の頃の米国のコンピュータ普及のことを次のように記している。
1.「1980年代のはじめには、100万台のコンピュータがあったにすぎない」とパソコン主力メーカーのコモドール・インターナショナル社は見積もっている。1982年にはコモドール1社だけで、それに匹敵する数のコンピュータを生産することが予想されている
2.カリフォルニアにある市場調査専門のデータクエスト社は1980年には50万台を超えるパソコンが販売され、総台数は年間、少なくとも40%の伸びを見せるだろうと予測している
3.パソコン分野のパイオニアであるアップルコンピュータ社は1977年の創業以来、25万台以上のコンピュータを販売し、目下、毎月2万台前後を売り続けている
4.1977年には、わずか50店がコンピュータマニアの用命を応じただけであったが、1982年には1万店になった
 コンピュータ、特にパソコンが誕生し、1975年にビル・ゲイツが友人のポール・アレンらとマイクロソフトをシアトルで創業、1980年は「ウィンドウズ」を販売する時期でもあり、アップルのジョブズは「美しいマッキントッシュ」を創り出すことに精魂をかたむけて米国の情報社会到来の実現に動いていた。
これから約40年後の現在の世界の状況をみるに、もちろん、政府、行政の軍需産業やスペースシャトルなどに莫大な巨費を投じたプロジェクトによって、その実現がもたらされたことも事実であるが、一般大衆を相手にパソコンを開発し、それを便利に使うソフトウェアの開発に注力していた若き20歳代のベンチャーの存在なくして、今日のようなインターネット社会は存在しえない。
そういった面で「経済活動的にいう消費の対象としての情報の価値が、ビジネス取引の中で主幹になったり、補完になったりしても金を生むものである」というのが情報社会の概念なのである。
それは一般的には「情報消費社会」とも呼ばれている。そして、この社会はダニエル・ベルが唱えた「脱工業化社会」、つまり、物的なモノに価値がつくことにプラスしてモノには情報(ブランド)など、あるいは、ディズニーランドやユニバーサルスタジオなどのエンターティメント施設が「体験や感動やキャラクター商品などの新しい消費活動を誕生させているが、これらが新しい産業を生み、消費や雇用を含めた主力産業になってくるのが「情報消費社会」であり、大きくは二つの方向がある。
一つは商品そのものや社会が成熟化していくにつれて、消費者の求めるものが実用機能から情報機能(ある産業においては情緒機能かもしれない)へとその比重が移っていくことと、さらに、情報技術、ネットワーク、メディアなどが今後ますます発展していくことである。
このように、1970年代から1980年代に発生した脱工業化社会=情報社会は米国から日本へと伝波してきた。2016年の現在において、これほどまでに情報社会が私たちのビジネスや生活を大きく変えることは、想像だにしていなかったが、特に「情報技術の革新」がもたらしたものは大きい。
東京における通勤電車の中で、7割位の人達がスマートフォンを手に持ち、何らかの「情報」に触れているか、入手をしているか、コミュニケーションをしている姿はある種、異様である。しかし、このシーンはまさしく情報消費社会の
一つの姿なのである。
情報消費社会は急速な情報通信技術の進歩によって様々な恵みを受ける。それは次のように集約される。
①情報へのアクセスがさらに容易になること(スピード、入手コスト、情報ルートの多様性)
②情報の多様性が進むこと(テレビ、インターネット、スマートフォン)
③情報表現が高質化すること(4Kテレビやスマホでも既にメール、電話、写真など高質化レベルにある)
今回の「情報化」のキーワードの中で、言いたかったことは、現在、既に現実化しつつある「AI」「ロボット」「I to T」などの次世代のITに関わる動向が、これから10年、20年後に、パソコンや携帯電話が社会やビジネスを変えてきたのと同様に大きなインパクトになるかもしれないということ、そして、それは「今、芽が出てきている」のである。これらがきっと近い未来に、私たちの社会生活、会社経営、生産活動などを大きく変えているだろう。
このことについては、今後のレポートの中で、書いてみたいと思っている。また、紙面の関係で「サービス化・ソフト化」については、次回に書こうと思う。

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