和田の本棚(2020. 8 №34)

 

和田の本棚

和田の書棚から「気になった一冊」をとりあげて紹介いたします。

著者:五木寛之

発行所:幻冬舎文庫

1999年3月25日 第1刷発行

定価:476円(税別)

<本紹介>

どんなに前向きに生きようとも、誰しもふとした折に、心が萎えることがある。だが本来、人間の一生とは、苦しみと絶望の連続である。そう“覚悟"するところからすべては開ける―。究極のマイナス思考から出発したブッダや親鸞の教え、平壌で敗戦を迎えた自身の経験からたどりついた究極の人生論。“心の内戦"に疲れたすべての現代人へ贈るメッセージが綴られている。

<気になった言葉>

〇本当のプラス思考とは、絶望の底の底で光を見た人間の全身での驚きである…極楽とは地獄というこの世の闇の中にキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものかもしれない(41P5L~)

〇一年間に二万三千、十年間で二十三万、二十年間で四十六万、これだけの人間が、この平和な物の豊かな時代に命を失っていく(自死)ということは、これはやっぱりひとつの戦争ではないか。いわば<心の内戦>のようなものが、いま平和に見える私たちの目の前でくりひろげられているのではないか(90P1L~)

〇自分の命が重く感じられないということ、自分が透明で軽くしか考えられないという立場からは、自分の周りの他人の命というものも重さが感じられず、軽くしか考えられないことになりはしないか。つまり自分を傷つけるのと同じように他人を傷つけることもそんなに大きな抵抗がない、ということなのではないか(93P後ろから1L~)

〇<免疫>というシステムは、単に身体のなかに侵入してくる異物を拒絶し、排除する自衛的なはたらきをしているだけではない、自己と非自己というものを非常に厳しく明確に区分けして<自分とはなにか>というものを決定するのが免疫の大きなはたらき…その免疫は異物を拒絶するだけでなく、その異物と共存する作用ももちあわせている(160P5L~)

◎「冷たい夜と闇の濃さのなかにこそ朝顔は咲く」…暗黒のなかで光を探し求めている人間こそがひと筋の光を見て心がふるえるほどの感動をおぼえることができる…その光が見えたときの喜びこそが啓示のようなはたらきをするのです(291P5L~)

※…は中途略を表わします

[感想]

「大河の一滴」にすぎない人間の命なのだけれど、生まれた時から人間は「生老病死」は決まっていることだけれど、人生は苦しみと絶望の連続だけれど、その中で一生懸命生きているじゃないか、その重みを感じてごらん、自分の命も他人の命も…。たおやかにいろいろなものを受け入れてたくさんのものを好きになった方が人生楽しいから、そんな風に聞こえてきました。

以前に「教養とはいろいろな人の意見を受け入れられること」と和田が言っていました。この本の文中に「免疫とは、異物を排除するのではなく、共存する作用ももちあわせている」との引用が出てきます。デジタルのように0(ゼロ)か1かで括ってしまうことなく、自分の嫌いな面も忘れてしまいたい過去も、肌があわないなあと思ってしまう人のこともたおやかに「受け入れる」「寛容になってみる」ことも大事。「生きているだけで大変」と思って周りを見ることでそういうことができそうな気もします。

「人生は苦しみと絶望の連続。なにも期待しないという覚悟で生きる」のは難しいけれど、だからこそふとした折に触れられる思いがけない他人の思いやりや優しさにできるだけ気づき、思いっきり感謝できるようでいたいと思います。

深刻な話題でも説教調にならないのは「自分ごときが何を言っているのか」という慎みと「文学者ならではの温もり」があるからなのでしょう。コロナ禍の今だからこそなお「読んでよかった」し、誰かに伝えたくなる言葉がたくさんあります。

[和田のコメント]

いつからから私は五木ファンになっていた。今から十数年前、致知出版社のたしか30周年記念講演であったかと思うが、真っ白なスーツに身を包んで登壇された五木さんは七十代半ば頃であったと思う。昔からモデルになるほどのカッコ良さであったが、あの白のスーツが似合う人はなかなかいない。

親鸞上人の研究の第一人者でもあるが、六十代を過ぎた頃の五木作品は高齢化社会を迎える日本人の「生き方の羅針盤」のような内容の本を書かれている。この「大河の一滴」もそうだ。

五木さんは自らを「マイナス思考の人間だ」と断言しているが、私は決してそうとらえていない。人間の本質をとらえ「そのマイナスを受け入れていこう」というプラス思考である。

「下山の思想」という本があるが、人間はやがて誰もが人生の下山に入る。悲観するのではなく、「その時の風景を楽しめば良いのではないか!」という人生の最後の楽しみ方を提言している。

五木さんの人間のとらえ方、生き方にいつも学ばせてもらっている。