ワダからのメッセージ (2022/3/25 №93)

経営は絶えず「変身商法」への挑戦である

社会人生活も50年が過ぎた。最初から、海のものとも山のものとも分からないコンサルタント業界に入った。「一つのことをやり続けることは凄いことだし、大事なことだ!」という教えがあるが、この点では合格点なのかも知れない。それなりにやってこられたのは自分の性格が合っていたのだと思う。

能力も初めはたいしたことはなかったと思うがヤル気満々の青年だった。それを船井さんは上手いことを言って教えてくれた。「和田君はこの仕事は合っている!何事にも好奇心を持つこと。勉強すればするほど頭がよくなる。そして学者ではないからコンサルタントは観察力を持ち、自分なりに学び、マーケティングや経営のルール(法則)を自分なりに創らないと駄目だ!」と!!

確かに実務経験がないからドラッカーの本、ランチェスターの本などを読み漁った。20代の頃は「競合店にどうやって勝つか」というテーマでマーケティングリサーチ(調査)ばかりやってスーパーや量販店の社長や幹部に生意気なプレゼンをしていた。勿論、船井流の伝道師として、船井さん関係の人たちと共に組織としてのノウハウの構築に励み、それで成果を出し、力を出し、成長できているのが実感できた。

そんな中でダイエーの中内功(故人)さんやイトーヨーカ堂の伊藤雅俊さんにお会いできたことも今となれば良い想い出だ。この頃から量販店は新しい産業として大きなビジネスとなった。ダイエーやイトーヨーカ堂に関する本がたくさん出版され、むさぼるように読んだ。そうすることによってさらに小売店や量販店に関する理解が深まり、経営戦略に関する知識も徐々に増えていったと思う。

しかし、この量販店も今やほとんど消滅してしまった。ただジャスコ(今はイオングループ)はショッピングセンターに力を入れ、独自のデベロッパーノウハウを構築し、今や日本一の小売業になった。これも「変身商法」の実践である。

イトーヨーカ堂は衣料品店から量販店へと変身し、米国のセブン‐イレブンのノウハウを身につけ、日本型コンビニのセブン‐イレブンを構築した。イトーヨーカ堂はセブン&アイグループとして名前も替えたが、コンビニの「セブン‐イレブン」が今や本体、本業となり、これも変身商法が上手くいった例と言える。

約25年のおつき合いのあった丸井さんとのことは私にとってこの仕事の財産となったと思う。二代目社長の青井忠雄さんに私が初めてお会いしたのは青井さんが40代半ば過ぎの気鋭の若手経営者として注目されている頃であった。その頃の青井さんの自信満々の言動はイノベーターとしての自信からであったと思う。

青井さんに会うのは年に1日くらいだったが、様々な事を教えていただき勉強になった。元々、創業は「月賦店」という月賦販売の小売店。それを青井さんはクレジットという横文字を使い、ヤング路線に、ファッションに、そして小口金融に変身させ、小売業界№1の高収益企業にしたのである。

1980年前後、スーパーの客単価は3,000円前後、百貨店は1万円前後だったが、丸井は3~5万円と1人当たりの購買単価も高く、それを月賦=クレジットで分割させて「若い人たちも欲しいモノが買える仕組み」を創った。それもいち早くコンピュータ投資をして顧客情報、すなわち支払い状況を一目で解る仕組み(システム)を独自で創ったのである。

今の三代目社長はこの仕組みをバージョンアップさせ、ECビジネスとの融合や新しいベンチャーアパレルや雑貨店の創業を支援するサービスをビジネス化している。

こうしてもみても丸井も変身商法の連続で生き残ってきていることがわかる。

また、30代半ば頃のことであるが、当時の会社(船井総研)にソニーの経営企画室から電話があり、私が窓口になって対応した仕事も忘れられない。「ソニープラザ」は輸入雑貨を販売する会社として1966年にソニー銀座ビルの地下1階にオープンして以来「おしゃれな舶来雑貨の店」として当時、大人気であった。

今や国民的なイベントになった「バレンタインチョコを贈る」のもソニープラザが仕掛けたものだと当時の担当者から聞いたことがある。このプロジェクトの詳細は多少㊙になっているので今でも書くことはできないが、ソニープラザはソニーの創業者である故・盛田昭夫(当時の社長)さんのプライベートカンパニーがソニー本体と共同出資していた。

ソニープラザの経営戦略の提案であったが、その報告会が品川・御殿山の本社で行われた。その時に初めて盛田さんにお目にかかり、終了後、盛田さん自らが本社内にあったソニー博物館を船井さんと私を案内してくださった。

その時に小さなトランジスターの前で足を止め、ガラスの中のそのトランジスターを指さして「これが世界中で売れて今のソニーがあります。この本社ビルも工場も建てることができました」とおっしゃったことが今でも鮮明に記憶にある。

それから35年以上経つ。創業者が亡くなられた後、ソニーは様々なことにチャレンジし続けてきたが、あまり上手くはいかなかった。しかしこの8年くらいでエンターティメントやゲーム、金融で復活してきた。まさに変身商法である。今後は、AIやデジタルで独自の戦略が期待されている。「世界のソニー」の復活である。

変身商法とは「環境適応戦略」であり「イノベーション戦略」でもある。

私が社会人になってから半世紀を超え、この間に社会のあらゆることが変質してきた。それは次のようなことである。

  1. 社会人になった年に大阪万博が開催された。戦後復興から立ち直り、高度経済成長まで20年足らずで「技術立国日本」が創られた
  2. 1970年、万博開催と共に日本は「サービス業、ファッション化」の時代に突入、所得が向上し、消費が旺盛になり、人々はおしゃれにお金を使うようになり、ファミリーレストランやマクドナルドなどファストフード時代を迎え、新しいライフスタイルが生まれた
  3. 一般人でも海外旅行に行けるようになり始め「パック旅行」というサービス商品の開発によって誰もが海外に行けるようになり、海外から新しい情報が人によってもたらされるようになった。グローバル化の初期の動きである
  4. 1979年、時のハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が70万部という大ヒットになった。この本は当時の特に大企業の経営陣やサラリーマンにも大きな励みや誇りを生んだが、IT社会に入った今、「当時のエクセレントカンパニーがことごとく変身できなかったのはこの本によって日本人が油断をした、その呪文のようであった」という見方をする評論家もいるほどである
  5. 1985年、プラザ合意によって為替は360円/ドルから変動相場制になった。つまり、それまで日本はハンディをもらっていたのが自由競争世界に入り、真の国際競争の中に入った
  6. 1980 年代後半の3年はバブル経済となり超過剰流動性時代(お金余り時代)に突入。あっという間にバブル経済は崩壊、その債務は日本経済に重くのしかかり、その後、20年とも30年ともいわれる「失われた年月」となり、同時にデフレ時代に入った
  7. 日本がバブル崩壊で苦しむ中、米国はデジタル経済、インターネットが普及しだして「物づくり中心社会」から情報の価値が高まるデジタル経済社会金融資本経済社会にうつり、経済価値は「情報」と「金融」へと変身し始めた。その中で現在、米国経済のみならず世界経済の主導権を握った「GAFAM」というIT企業群が生まれ、新しい社会・経済構造を創り出している
  8. 1996年にユニクロは株式上場した。株価の最安値は1998年の1050円。この時、100万円で株を購入して現在、つまり24年間持ち続けていたら現在の株価で2億3千万円になっている計算になる。この間、株式分割も6回しているし、会社も順調に成長し、グローバル企業になっている。ユニクロは今までの日本の小売業やアパレル業にない戦略によって現在の企業体を創り上げた。まさに既存の業界とは違う変身商法の実践によって現在がある。それはSPA(Speciality store retailer of Private label Apparel)、つまり企画製造小売業という全てを独自で賄うというビジネスモデルをユニクロは完遂したのである
  9. グローバル化は金融ばかりでなく製造業でも進化して特に1990年代から中国や東南アジアなど安価な労働力の地域に日本もヨーロッパ勢も進出した。その結果、サプライチェーン(供給)の国際ネットワークが完成したのであるが、今回のコロナ感染や紛争・戦争など地政学的な問題が表面化したことでサプライチェーンの見直しをし始めている
  10. スマートフォンの出現と普及は、良くも悪くも私たちの経営や生活、そしてコミュニケーションの仕方を大きく変えている。このスマホを支えるコンテンツ産業も巨大になった。お金になるビジネスモデルも次から次へと出現している。しかしこれらで新しいビジネスモデルを創れるのは30代、20代の若者が中心だ。ここにはオジサンたちはほとんど変身できないのが実情である。全く新しいビジネスが創出され始めている。スマホを使わなければBtoCのコミュニケーション、CtoCのコミュニケーションもとりにくくなっている。携帯スマホでどこでも物が買え、ホテルが予約でき、本が読め、ゲームができ、仲間同士がコミュニケーションできる。新しい時代が来たのである
  11. SDG's社会と言われるように、地球温暖化、脱炭素エネルギー問題など、今の資本主義社会を成り立たせている産業や人々の社会生活では早晩、地球がもたなくなる。具体的には温度が2度以上上がったら、今までの地球環境は破滅するし、想像を絶する環境になる。それは2030年、つまりあと8年で手を打たないと最悪の方向に行くという。私たちの生活を切り替え、プラスチックなどの素材も新しいものへと素材開発ができるように、生活の仕方も技術開発も変身が求められている

まだまだある。1970年に公害問題で世間は大きく揺れた。水俣問題、都内の自動車排気ガス問題など、全国アチコチで50年前に戦後の高度経済成長の負の問題が社会問題になった。しかし、日本人ばかりでなく、人間は便利で快適な生活を創り続けてきた。

今、私たちは日々、当たり前に豊かな生活をしているが、もし、食糧難になったら、自給率40%を切るこの日本で1.2億人の人はどうやって生活をしていくのか?私たちはスーパーに行けば当たり前に食糧が手に入る。しかし、有事や災害があれば、その当たり前は一変する。

そして日本は少子高齢化が急速に進行している。新しいビジネスもそれによって生まれているが、課題も山積みである。

さらにコロナ襲来で疫病対策としては「人は交わってはならない」「人は移動をしてはならない」という自由とは真逆なことを突きつけられた。それは経済がストップすることであるということを体現している。

つい2年前まで考えられなかったことが事実となった。53年の仕事人生の中で初めての経験の最中にいる。この中で思ったことは自分自身を、そして仕事のやり方を、そして考え方を変身させなければならないということだ。

最後にそのために何をするかの要点を提示する。

  1. 常にリスクということを考え、日々準備すること。まず資金繰り、自身の健康、サイバー攻撃を最優先に
  2. 常に勉強し続けること。特にリーダーは歴史に学ぶこと。その中から有事には何を基準に判断、決断するのかを身につける
  3. あらゆる業界に目を向け、難関を乗り超えている会社を常にチェックし、ナゼなのかを研究しておく
  4. こんな時こそ顧客志向を第一に優先し、まず上得意客、得意客が離れないような対応を考え、実行すること
  5. 有事にこそ社長自らが第一線に立ち、勇気と元気を社員に与え続けること。そのためには「現場に答えあり」をモットーに現場(スタッフ、取引先、社員、アルバイト)がどんな状態で働いているのかを常に把握しておくこと

社会は大変化をしています。コロナ襲来の当初に私が予想した通り「70%経済」になっていると思います。当分、この状態が続く覚悟で経営に全力を挙げなければなりません。私は常々、経営も仕事も人生であると思ってやってきましたし、これからも仕事人生を続けます。

ドラッカーは「未来企業」の中で「どんな時代が来ようとも生き残るためには日頃から学び続けていなければ駄目である」と教えています。

この「ワダからのメッセージ」は緊急メッセージもあわせると120回を超えましたが、今回で最終回となります。

また皆様と何らかの形で接点をもてるように精進してまいりたいと思います。ありがとうございました。

感謝!!

※3月の「今月の学び」№52と併せて読んでいただけると、今後、何をすべきかが分かりやすいと思います。